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集え! イーハトーヴ・オンライン [水琴窟のウンディーネ]

セイヨウアジサイ.jpg
アジサイ(アナベル).jpg
ガクアジサイかな.jpg

 アジサイの季節ですよー。

 いまだに「ガクアジサイ」と「ヤマアジサイ」と「セイヨウアジサイ」のどれがどれだったかよくわからなくなることのある高菜らいすです。一枚目の画像がいわゆる「セイヨウアジサイ」と呼ばれるものかと思いきや、花びらの形がなんだか違っているような気がする。二枚目も「セイヨウアジサイ」なのかな。ネットでひたすら画像検索を続けましたところ、「アナベル」と呼ばれる品種のものにそっくりでした。そして三枚目が「ガクアジサイ」かな……。いまいち断定するのが不安なのでして、仮に高菜らいすと同じようにアジサイの詳しい名前が知りたくてネット検索した末にここへたどり着いた方がいらっしゃいましたら、どうかお気をつけください。間違っている可能性が高いです。次の機会には図書館へ行って「THE・あじさい」的な専門図鑑を探してみたいと思います。

 一時期だけの開花なのでいつも詳しく調べることを忘れてしまう、などと思っていたのですけれど、たった今考えを改めました。他のお花も、一時期だけのお花だよね。それではなぜアジサイについて高菜らいすはあまり調べたりしようとしなかったのか。それはたぶん、雨がふっている季節だから。そのような理由が思い付きました。雨ふりゃ人間傘をさす。だからデジカメ構えにくい。そんな理由なのかもしれません。なんともくだらない理由でした(笑) これからあと何度この季節を堪能できるのか。そう考えると傘をさしながらでもデジカメ構えちゃうんだー。ま、そんなアジサイ画像なのでした。

 あと、葉っぱは食べてはいけません。毒だからね。毎年というわけでもないのですけれど、食堂で供されたアジサイの葉を食べてしまい病院送りになる方々がいらっしゃった、というニュースを見かけます。アジサイの葉を見かけるといつもそのことを思い出し、暗い気持ちになるんであります。そしてアジサイの葉っぱのあの肉厚な様子に毒々しさを感じるのであります。キレイなバラにはトゲがある。キレイなアジサイには毒がある。よく覚えておくように。ここ、テストに出るぞー。

 リピートアフターミー。

 さておき6月になりました。最高気温が30℃に近い日がやってきています。高菜らいすの部屋はたぶんお昼間は30℃を越していると予想されます。一番上の階で閉めっぱなしだからね。そろそろエアコン使用の季節となってまいりました。去年はやせ我慢してエアコンをあまり使わない日々を試しに送ってみたのですけれど、夏の終わりかけの頃にようやく得た教訓は「暑い時はガマンしないほうが良い。電気代がちょっと高くなるくらいなんともない。その分、涼をとりげんきに、仕事頑張ればいいではないか」というものでした。

 ただ、なんとなく節電ムードの昨今であります。

 熱中症で倒れるくらいまでは、節電頑張らなくても、いいよね? と、誰かに問いかけたくなるんでありました。気象庁の統計局のウェブサイトで去年の6月のお天気データなどを眺めるに、そろそろ30℃を越す日がやってきそうです。みなさまも、水分摂取などを忘れず、どうか快適に過ごされるよう、お気をつけください。

 それではまた。ばいばいきん。



【追記】 しかしそれにしてもアジサイの花期は限られている気がしてきたました。たとえばカタバミ。カタバミたちは春先から冬の直前まで、至る所にいっぱい咲いている。視界に入る機会がアジサイと比べるとやっぱり多いのかも。「傘をさしているから」という理由だけでもないような気がします。


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たにぐち

こんにちは。
暑い夏がそろそろやってきますね。
昨夏はエアコンなしでお疲れさまでした(笑)
ちなみに扇風機が節電に効果的なんだそうです。まあエアコンにはかないませんが結構身体が涼しくなりますよ。

あとARIAも3シーズン目を見終わって、今は1から見ています。楽しい作品をご紹介いただきありがとう。久しぶりに物語にどっぷり浸れたような気がします。アリスの昇格の回は感動物でしたね。もちろんそれ以外の回も面白かったですけど。トラゲットの回とか。

そういや前の記事でも近いことを書かれてたように思いますが(ちょっとニュアンスが違うかもしれないけど)悪い人が出てきそうにない作品なんですね。味気ないようにも思えるけど、それがこの作品の良いところなんだろうなと思ったり。やっぱり悪い人がでる作品って、その悪い部分も真似してしまいそうになりますしね。なんて気にしすぎですかね。


ではでは。ではでは。

by たにぐち (2011-06-08 00:34) 

takana_R

 こんばんは。

 じわじわと夏がやってきましたね。うちの部屋では扇風機がすでに稼動しております。窓際に置いて、外気を部屋の中に取り込むために。こうでもしないと部屋の気温が下がらないのです。すでに暑い。これからやってくる本格的な夏が思いやられます。

 ARIAの第3シーズンをご覧になったのですね。おまけに第1シーズンまで。個人的な印象になりますけれど、第3、第1、第2の並びで、クオリティが高いような気がいたします。(26話に渡る第2シーズンは制作陣に疲れがあったのだろうか?(^^;などと) トラゲットのお話もすごく丁寧に作られていますよね。普段アリシアさんやグランマの影に隠れてあまり能力がわからない灯ちゃんが実はけっこうすごい子だということがそっと知れる素敵なお話でした。他のウンディーネ見習いさんも可愛い。(みんなの髪型がちょっと他の話のときと違っていたりしました)
 アリスちゃんのオレンジプリンセス昇格は、ゾクゾクしたものです。通り名がちょっと恥ずかしいかもだけれど。藍華ちゃんのアキラさんへの気持ちもそうですけれど、アリスちゃんがアテナさんを認め、慕っていく様子が、シリーズ全般を通して感じられるのがとても好みでした。
 飛び級昇格ですけれど……危機に瀕したとき、人々や団体や協会や国家などは、「英雄」を必要としたりするそうです。飛び級でアリスちゃんが昇格した、期待を込めてウンディーネ協会は大英断を下した、と述べられていたのですけれど、もしやウンディーネ協会は危機にひんしているのだろうかなどと感じたり(笑) 観光業は大変そうだしなあ、と。まあちょっとした思い付きなのですけれどね。

 それ以外でも、高菜らいすという個体はその個体なりに、いろいろと思うところもあるのです。そもそも水無灯はなぜARIAカンパニーに入社することができたのだろうか。大妖精と呼ばれたグランマが在籍していた、三大妖精のひとりアリシアさんが在籍している、そんなARIAカンパニーに憧れる人はきっとたくさんいただろうに。アリシアさんもそのことは考えていたのではないだろうか。ARIAカンパニーの看板に萎縮してしまって、せっかくゴンドラ乗りという素敵な仕事を得たのに、その子をダメにしてしまわないか、などと考えたりしたのだろうか。
 灯の素質がかわれたには違いないのだけれど、アリシアさんはなぜ彼女を選んだのだろう。いくつか答えは物語の中に散りばめられているのですけれど、そこに焦点が当てられていたのは最後のお話くらいだったような。でも高菜らいすには少し不足を感じる塩梅だった。そんなことを考えながらARIAを何度も観てしまいます。

 悪い人が出てこない。

 そうですねー。別に悪い人が出ていても、悪い部分を真似してしまうとは高菜らいすはこれっぽっちも思っていないのですけれど(^^; 「悪い人」を「愚かな人」と換言することをお許しいただけるならば、愚かな人には望ましくない未来は訪れるのだなと感じられれば、むしろ登場してほしいくらいかもしれません。

 そういえば物語を面白くする要素には「対立」というものがよく挙げられています。主人公を邪魔する人がいると物語が面白くなっちゃうそうです。たしかにそうかもと思ったりします。
 ただ、一見悪役実は優れたキャラクターというようなものも存在しているような気がします。そういうの、高菜らいすも描いてみたいものだなあと考えたりします。そういえばユゴーの『レ・ミゼラブル』に出てくるジャヴェール警部というキャラをご存知でしょうか。彼がすごくいいのです。主人公であるジャン・バルジャンを認めない、でも最後には認めることになる、しかしそれでは彼のアイデンティティが崩壊してしまい……彼はついに自殺してしまうのです。とても気の毒なキャラクターです。こういうの書けたらいいなあと思ったり。

 他にも悪役とは違うかもなのですけれど、『風の谷のナウシカ』に出てくるクロトワみたいな人物が自分にも描けたらなあと夢を抱いたりします。彼らはもう、先に上げた「対立」を作り物語を面白くするというただの機能としての枠などゆうに超えていて、そこにまたヒトとしてきちんと存在しているように感じるのです。これ、すごい。

 ARIAを楽しんでいただけてよかったです。
 それでは。
by takana_R (2011-06-09 19:52) 

キリハラ

 Hi,girl!
 この間銀座に行ったのだけど、ブランド店が軒並み照明も冷房も扉も全開にしていて、金持ちにとっては節電なんか嘘っぱちだと思いましたのよ。貧乏人が節電しなきゃならないなんて酷い話ですのよ。お金払って節約していたら世話ないね。キックバックを頂きたいものです。
 ARIAの第二期は第一期の反響を受けて突貫工事で作った部分があるみたい。それであまり工夫が出来なかったのではないかな。実際、あまり評判はよろしくないです。というか第一期の一部しか見たことないから何とも言えないのだけど。漫画版オンリーなものですから。
 所謂悪い人が出て来なかったのは、正直ちょっと気持ち悪かった。ポジティブで埋まり過ぎているのがなあ。まあ仕方がないのでしょう。何もかんも一つの作品に求めるのは酷だし。
 悪意で言えばサンミケーレ島のお化けがアクアの世界と対を成しているかもしれない。
 ついったで誰かが呟いたことには、カーレースゲームで信号無視や逆走をしていたところ、何で悪い事してもいいのかとお子さんから注意を受けたのですと。子供の世界にもちゃんと倫理は存在する訳であります。物心ついてすぐにルールの基本を学べば、後は周りにいる大人が問題になるのであって、創作物やメディアの影響など大したものではないのだとひしひし感じました。結局直近の人間を見て育つのね。多分。で、呟いた方は警察に捕まるバッドエンドを選んで、悪い事したらいけないと答えたそうです。
 ストライクウィッチーズで下半身が気になるのは最初の三話くらいです。第二期までぶっ続けで見て頂きたいのです。バルクホルンさんの魅力に嵌って欲しいのよ。
 あと、マイスパレードというバンドがお薦め。
 →http://www.youtube.com/watch?v=LQ3kbwY411c
by キリハラ (2011-06-10 01:35) 

たにぐち

今し方、ARIA一通り観終わりました。
やっぱり、すげー面白かったです。

ちなみに私は3→1→2という順で観たんですが良かったのは2→3→1の順でしたね。まあどのストーリーもすばらしかったですし僅差ではあるんですけど、でも2が一つ一つのストーリーが丁寧だなと思ったり。まあ2クール分たっぷり使っているのである意味当然なんですけどね(笑)。2シーズン目の終わりに特典で入っている佐藤順一監督のインタビューを観たんですが、シリーズ全体で構成をいろいろと考えているんですね。藍華の髪形を変えたところの連続した回(髪を切る→風邪をひく→アルに会いに地下に行く)だとか、ケット・シーの流れなんかとくにはっきりしていたと思うんですけど、一話が終わった後に、必ず次に繋がるような、あるいは同じような構造の双子、三子みたいな回が全シリーズ通してたくさんあったような気がしました。そういうのに気付いたとき、ワザとなのかな、偶然なのかなと考えたりするのもなかなか愉しかったです。

そういや灯里がARIAカンパニーに入社できた理由は謎ですね(笑)ARIAカンパニーという会社が灯里という才能を見つけた理由。個人的にはすごく知りたいような、いや知りたくないような感じかもしれません。なんだか知ってしまうとがっかりするかもという気もします(笑)。

ちなみにこれは個人的なことですけど3シーズン目を終えて1シーズン目に戻って観たとき、最初は当然灯里がARIAカンパニーに入社するところから来るのかなと思ったら、入社して二年目で、藍華とすでに友達で、というところから始まってて、ちょっと混乱したんですよね。まあこれはすぐ慣れたんですけど、このストーリーってもしかしたら、始まりと終わりがない作品なのかもと思ったりしました。それくらい途中から観ても違和感なかったです。もちろん作品上は始めと終わりはあるんですけど、でも観ている間ずっと、なんだか大きな流れの途中にあるような感じを受けましたね。もしかするとケット・シーの影響なのかなもしれませんし(笑)、あるいは灯里の入社がなかったり、灯里のシングル昇格の回がなかったから、余計にそう思っただけなのかもしれませんが(笑)

あと悪い人が出てこないというのは、かなり説明不足だったかもしれないので補足させてください(汗) 前提として必ずしも悪意があった方が出来が良いという評価に基づくものとして述べたのではなくて、天野つぐみさんの個性、もしくはこの『ARIA』という作品の個性(作風)なのかなと思った次第です。(ほんとは言葉不足で申し訳ないです。ちゃんと書けば良かったのですが、全部はまだ観てなくて自信がなかったのと、またこちらにたくさん書くと迷惑かな~(汗)と思ったのが中途半端に書いちゃった理由でした。)

で、何でそう思ったかというと個人的にはそういう人間の悪意を丁寧に描ける人は描いてしかるべきだと思うけど、だからといって必ずしも描く必要があるというものでもないのかもと思ったのですよね。描く必要がないのなら無理して描く必要がない。あえて表現しないことも時には大事なことなんじゃないかなって思ったんです。天野こずえさんは、私の中ではそういう風に思わせてくれた作家さんでした。少なくともこの作品においては悪意的なものは書かない、という作家としての確固たる意思があったんじゃないかなという気がしてならなかったのです(まあ作家さんの個性なのかどうかは、この作品一作しか観てないのでやっぱり判断しかねてしまうのですが)。私の場合も、その辺がやはり今回鑑賞していてとても奇妙に映ったわけでして、なにがしか理由があったんじゃないかなと。上手く説明できなくてすみません。

あくまで、真似しやすい云々は私の想像でして、天野こずえさんご自身はそんな単純な発想はしていないだろうと思いますが、少なくともこの作品から悪意に共感して変な影響を受ける人は、まあいないだろうなと(笑)

そういや、たしか姫屋の社員の晃の悪口を耳にして藍華が悔しがって泣く回がありました。悪意を直接描いた回だったように思います。そこでウエディングケーキに顔をぶつける花嫁のたとえ話でうまく人間の昏い部分を処理していて、あれって直接踏み込まないようにしていたんじゃないのかなというか、心の闇の中に踏み込むということに関してはとくに慎重に描いていたんじゃないだろうかという気がしたのですよね。そのあとの晃の『ウンディーネは強くならなきゃいけない』というような意見も、しっかり藍華の悲しみからアウフヘーベンしていたような気がしましたし。もちろんこれらは天野さんだけじゃなく、演出や脚本や監督の考えも多分に含まれるんでしょうけどね。

とにかく好きな回がたくさんありましたね。本当に数え切れないくらい。サン・ミケーレ島の墓地に行く回は個人的には味があって好きな回です。それから、こちらでいろいろな意見をでうかがうことができて良かったです。レ ・ミゼラブル機会があれば今度読んでみようかなと思います。

それでは失礼します。

by たにぐち (2011-06-10 21:00) 

たにぐち

ちょっと分かったような気がするので追加で書き込みます。
なんで灯里がアリアカンパニーに入社したのか。

■今回はネタバレが多いので、未視聴の方はお気をつけください。(というかあんまり考えてなかったかも。すみません)

で答えは、たぶん、才能はあまり関係なかったんじゃないかなと。
それよりも、灯里の持つ素直さが評価されて、入社したんじゃないかなと感じました。まあ素直さが才能に含まれるとあれですが。

弟子の性格が素直であれば、アリアカンパニー及びアリシアの技術、精神を叩き込みやすいで。でも逆に素直さがなければ、どんなに操舵や歌唱の技術が優秀でも鍛えがいがない、そう判断したんじゃないかな〜と思いました。これだとアリシアが一人しか弟子を取らなかった謎にも、みっちり教育したいということで、繋がるような気がするんですよね。また叱らず見守るという少々独特なアリシアの教育のモットーでは、普通のやり方では教育に時間が掛かることが想定され、そこでも灯里の素直さや好奇心が求められたんじゃないかなと思いました。よくよく考えると、歌唱を除いて、ウンディーネには特別な才能って必要ないんじゃないかなと思われるのですよね。操舵もガイドも接客も割となんとかなる。ウンディーネの操船もゆっくり漕ぐことにあるみたいですし(その代わり船を揺らさない技術が必要となりますが)、特別な技術がなくても、基本が十分に備わっていればOKとも取れます。で、基本をつけるにはとにかく練習練習、経験経験が必要と。

つまり才能がなくてもなんとかなる。だからこそ誰にもチャンスがあって、だからこそプリマへの競争率が高い。アリスの操船技術は確かに優れてますが、接客が不得意なままだとやっぱりプリマにはなれなかったんじゃないかなと、そう思われるのですよね。藍華と晃の最初の出会いのクローバーのお話につながりますが、努力で才能を伸ばす、そういうところがこのお話の根底にあって、そこに作者は持って行きたかった(読者に気づいて欲しかった)のだと思われます。アリスは才能があって、も素直さが足りない。藍華は才能がなくて、もがきながら諦めない心を得ようとする。灯里は才能がなくて、素直さでカバーしていく、とともにネオ・ベネチアを描いて行く、そんな三者三様の姿をこの物語で描こうとしたのではないかなと思います。完全な対称形じゃないのが、この作品の良さというか一つ一つが歯車のように繋がっているように感じました。

まあ、原作読んでない私の想像ですけどね(笑) しかも、あんまり面白くない答えですけどね(笑)、しかも、また長々と書いてしまいましたけどね(笑)、でもなんかもったいないので書き込んでおきます。

でも勿体無いですよね。確かこのアニメって深夜枠で放映されていたのですよね。ゴールデンタイム的というか、万人受けするアニメだと思うんですけどね。結構、老若男女を虜にするんじゃないかなと思います。中高年の方にも意外と受け入れられる気がします。まあ、そうするとDVDが売れなくなるんでしょうけど。でも、もう一回アニメ最初から作らないかな。同監督、同声優で更にアニメーションの質を上げて(要するにたっぷりお金を掛けて)、って感じで。って今更遅いか(笑)

ほんじゃ、失礼しましたー。
by たにぐち (2011-06-11 17:48) 

takana_R

キリハラさんへ

 Yeah,Baby!

 銀座のブランド店。なんだかキラキラの世界ですねー。節電が必要なのはどうも夏真っ盛りの時期らしいので、今は別に構わないのではないかと思いつつ。もう電気代あげちゃえばいいのに、そしたらみんな節電するっしょ? などと乱暴なことを考えてしまう高菜らいすであります。一般家庭はまだしも、工場などは節電するの大変そうですしね。(基本料金が上がるのではなく、使用料に割合で上乗せというのが個人的に望ましい(笑))

 ARIA第二期にはそういう事情もあったのかもなのですね。ときどき人物の横顔が妙なカタチだったりしていたので、気になっていたのです。好きなエピソードもたくさんありますので、特別問題だったわけではないのですけれど。漫画の絵柄の方が高菜らいすは好みかもですー。灯里ちゃんが、漫画のが可愛い(^^

>悪意で言えばサンミケーレ島のお化けがアクアの世界と対を成しているかもしれない。

 面白い視点をいただきました。「他者の目」というものはやはり素晴らしいなあ。過去を覗いたり、ケットシーと出会ったり、猫の集会があったり、銀河鉄道が出てきたり、不思議な体験もたくさん描かれているのですけれど、お化けのお話は少し寒気もしました。「灯里の恥ずかしいセリフ」と対になっていたのは例えば「お化け」の話かもしれないというご意見、なるほど。それらでアクアの物語世界は構成されているとも考えられる。
 「ポジティブで埋まりすぎている」とおっしゃってくださいましたけれど、お化けの話ではそのポジティブさだけで進むと罠に出くわすこともある、そんなことをものすごく抽象的に描かれていたのかも?と思ったり。

 創作物やメディアの影響について。むー、そのカーレースゲームをしているときに子供に同じことを言われたら高菜らいすは「君は子供で未熟だなあ。ゲームと現実の区別も付かないの?」とドヤ顔で言ってやるかも(笑) ゲームでも交通法規を守ってしまいそうな高菜らいすではありますけれど。

 「人を育てるのは環境であり、その環境とは畢竟「人」である」と大切な友人がおっしゃっていました。とても納得出来る指摘だと思っています。「職場の人間関係さえ相性が合えば、良好であれば、仕事が多少きつくてもいい」というような社会人の言葉を聞いたこともあります。子供の頃は環境(人)を選ぶ選択肢が少ないけれど、オトナになると環境(人)の選択肢が増える。自分で選べるのですよね。大人ってすばらしいなあ、と思ったりします。自分で自分を育てる環境を選ぶことができるなんて。近頃大人になれて良かったとつくづく思う高菜らいすなのであります。

 まあそれはさておき。

 ストライクウィッチーズ、マイスパレード、機会を見つけて試してみたいと思います。マイスパレードはヴィブラフォンが気持ちいい。ぼそぼそボイスも楽器として面白い。ご紹介ありがとうございます。

 ではではー。
by takana_R (2011-06-13 22:10) 

takana_R

たにぐちサンへ

 ARIAを全部ご覧になったのですね。お疲れ様でした。たにぐちさんにとっても楽しい作品だったようで、なによりです。高菜らいすが「藍華と晃」の話に注目しつつ、灯里の入社のことに思いを馳せた一方で、たにぐちさんはゴンドラという乗り物やアクアの世界に興味を持って作品を眺められた。そのような違いが楽しい。同じ作品でも見ているところが違うのは発見があって面白いです。

 悪役についての誤解があったようで、「悪意」「悪役」に付いてはまた別の機会にお話できたらいいかも、と。作品に全てをいれて欲しいと求めるのは酷であるというキリハラさんのご意見にも賛同するところがあり、たにぐちさんの必ずしも悪意などを描く必要があるわけではない、というご意見にも賛同するところがあり。
 ただ、高菜らいすはヒトなのでして、架空とはいえ空想とはいえ作品内に「ヒトの本当っぽい部分」が描かれていることを期待している気がします。人の愚かしい部分を入れないのは……嘘なんじゃないか? 物語に付き合った時間がもったいなかったと思うというかなんというか(笑) 性悪説を信奉しているのかもしれません。
 何を楽しむのかの好みの問題、個人の性質の違いなのかもしれませんね(^^;

 灯里の「素直」さについてのたにぐちさんの考察。

 たしかに彼女はたいへん素直な性質の女の子のように描かれていました。誰もが認める部分だと思います。高菜らいすも認める。灯里ちゃんは素直ないい子です。ただ、それがARIAカンパニーに入るための決定打となったかどうかは、多少疑問の余地があるように思います。「素直さ」というのは実は多くの人が有している性質で、特別なものではないと高菜らいすなんぞは考えていたりするのですよ。素直になれる相手、状況、そういうものを適宜選ぶことが出来るか出来ないか、ただそれだけの話なのでは?(どうして素直になれるのか、どうしたら素直になってもらえるのか。そういうのを知りたいと日々思っています) 
 たにぐちさんがおっしゃってくださった「素直さから導かれるもの」はARIAカンパニーだけではなく、姫屋でもオレンジぷらねっとでも求められるだろうし、そもそもウンディーネだけには限らないものにも思います。
 再度疑問を申し上げます、高菜らいすが個人的に疑問をいだいているのは「ARIAカンパニー」或いは「アリシアさん」が灯里を選んだ理由です。(そもそも選んだのかどうかもあやしいものですけれど。つまり、みんなビビってARIAカンパニーには近寄れなかった、という可能性も(笑))
 素直さに関しても、アリシアさんであれば、たとえ素直ではない子であっても、いとも簡単に扉を開いて素直にさせてしまう「言葉」をたくさん知っているようにも思います。たくさんの種類の「カギ」を彼女は引き出しの中に閉まっているように思うのですね。彼女にとって相手が素直な子であるかどうかはあまり問題にはならないのではないかなあと感じたり。

 高菜らいすの私見を述べておきますと、水無灯里ちゃんがARIAカンパニーに入社した理由のひとつに、彼女が「マンホーム」出身だから、という理由があったのではないか。そんなことを想像します。灯里ちゃんはネオ・ヴェネツィア、アクアから精神的にも物理的にもとても離れていた存在だった、だからなのではないか。それはたとえば、仮に新人ウンディーネ見習いちゃんがARIAカンパニーという看板に押しつぶされそうになったときに、遠く離れた場所へ一時的に避難することも可能、逃げ場がある、そこまでアリシアさんが考えていたとすれば、アリシアさんは面白いなあと高菜らいすは思ったりします。

 まあ、想像でしか無いのですけれど(^^;
 考えすぎな気もしますけれど(^^;
 そして、アリシアさんを過大評価しているだけのような気も(^^;
 にはは。

 ただ、この仮説をそのまま前提とすると、アリシアさんの想定していた枠を灯里ちゃんは遙かに凌ぐ器量を持っていたことになります。雨降りが続いていてようやく晴れた日に、お洗濯物が干されている様子を予想して、ちょっとしたゲームのように喜んでいるような子なのです。遊びの天才すぎます(笑) アリシアさんが口にしていた「灯里ちゃんは私の気付かなかったネオ・ヴェネツィアの素敵なところを教えてくれる」という言葉、あるいはグランマが言っていた上達するための資質「アリシアは楽しむことが上手な子」という言葉、それらをふと思い出したりするのですよね。ARIA外伝「その、灯里ちゃんへの想いは……」を高菜らいすが書きたくなっちゃいます(笑) ARIAカンパニーへの入社条件はなんだったんだろうなあ。(そういえばARIA社長は野良だった頃、ずっと海を眺めていました。それを見てグランマはARIAカンパニーを作った。猫さんの見ている世界を自分も見たくなった、と。自身が持っていない、あるいは忘れている「目」を持っている。それが入社条件なのかも?(^^)

 高菜らいすはアリシアさんをずっと「よくわからない人」と感じていました。いつも笑顔で、優しく、出来る人。こういうキャラは創作物語でけっこう見かけることがあるのですけれど、高菜らいすがそういう人間ではないせいか、理解の及ばないことが多いのです。何考えてるかわかんない。悪く言えば「物語を作るために必要とされたただの機能、記号、便利なキャラクター設定、それはつまり血の通っていない人、嘘」などと思われる可能性も秘めているのでして。
 第3シリーズだったでしょうか、アリスちゃんがアリシアさんとカフェで一緒になり「アリシアさんはなぜ叱ったり起こったりせず、いつも笑顔なのか」と尋ねるあのエピソードがあって、少しだけアリシアさんのことが知れて、高菜らいすは嬉しかったのでした。彼女の面白いところは、時間をかけて成長を待ちたい、掘り下げれば「自分も間違っている可能性だってある」と言っていたところ。「自分も間違っている可能性」を想定できる彼女に、ずば抜けた知性を感じます。
 そういえば藍華と晃、アリスとアテナには、相手を思うがゆえの感情のすれ違いの描かれていたエピソードがあったのですけれど、灯里ちゃんとアリシアさんにそれがなかったのも興味深い点です。(灯里が物語のストーリーテラーという役割も担っていたことから描きにくかったとも考えられますけれど) だから、灯里が少し想いを告白したトラゲットのお話などは、とても楽しめたのでした。

「アリシアさんのお役に立ちたいんです!」「十分役に立ってくれているわよ?」「もっとお役に立ちたいんです!」「……それじゃ、トラゲットやってみる?」というこの会話。アリシアさん、この会話がいずれかわされることを予想していたんじゃないかと思われんばかりの用意周到さです(笑) ふたりきりのARIAカンパニーでは、灯里ちゃんからはアリシアさんしか目に入らない、それでは気分転換に他のウンディーネ見習いと接する機会を設けてみてはどうか。藍華ちゃんやアリスちゃん以外の子で。アリシアさん、すごすぎる……。

 アリシアさんは思うに、とても長いスパンを視野に入れることができ、自身の行動の指針を得ている、そんな人物として描かれていたのかなあと思ったりしました。言葉を変えれば、遥か未来に起こるであろう問題を先に予想でき、それに対策を講じることのできる人。勝負するずいぶん以前にすでに勝利を得ている、そんな人のような気がしています。自分とは別次元を生きているように感じられて、高菜らいすもそっちの世界にいきたいなあと羨ましくなったりします。

 ま、そんな感じです。

>でも勿体無いですよね。確かこのアニメって深夜枠で放映されていたのですよね。ゴールデンタイム的というか、万人受けするアニメだと思うんですけどね。結構、老若男女を虜にするんじゃないかなと思います。中高年の方にも意外と受け入れられる気がします。まあ、そうするとDVDが売れなくなるんでしょうけど。でも、もう一回アニメ最初から作らないかな。同監督、同声優で更にアニメーションの質を上げて(要するにたっぷりお金を掛けて)、って感じで。って今更遅いか(笑)

 万人受けするとDVDが売れない、というカラクリが高菜らいすにはよくわからないのですけれど、ただ、再度つくり直す必要を感じるほどではないかもしれません。音楽がのんびりで、楽しいアニメでした。また、アテナさんを演じられていた川上とも子さん、アテナさんの歌を歌っていらした河井英里さんが、お二人ともすでに他界されているのです(T_T) たいへん残念です。声や歌の違いがわかる高菜らいすではないのですけれど、個人的にはARIAはもうこのままにしておいてほしい気がいたします。DVD欲しいな。或いはBDか。

 それではー。

【追記】 すごいことを思いついてしまった……。アリシアさんは、後輩にする子は誰でも良かったんじゃないか(笑) どんな子でも大丈夫。そんな気がしてきました。「まあマンホームからわざわざ? あらあら、じゃあ採用☆」とかね(^^;
by takana_R (2011-06-13 22:10) 

たにぐち

高菜さんへ

もしかしたら、終わった議論なのかもしれませんが、やってきました。

>灯里ちゃんはネオ・ヴェネツィア、アクアから精神的にも物理的にもとても離れていた存在だった、だからなのではないか。それはたとえば、仮に新人ウンディーネ見習いちゃんがARIAカンパニーという看板に押しつぶされそうになったときに、遠く離れた場所へ一時的に避難することも可能、逃げ場がある、そこまでアリシアさんが考えていたとすれば、アリシアさんは面白いなあと高菜らいすは思ったりします。

その可能性は否定できないかもしれませんね。アリシアの思慮深さが滲み出ているような気がします。それから、アリシアさんが灯里を選んだ理由がとくにない(誰でも良かった)という高菜さんの見解にもなんとなく同意するものがありました。あらあら(笑)パワー恐るべしです。


>グランマが言っていた上達するための資質「アリシアは楽しむことが上手な子」という言葉、それらをふと思い出したりするのですよね。

2シーズン目の最後の回の灯里とアリシアさんがつくった雪だるまは覚えていますか? ちなみにその前の回は、シングルの灯里たち3人が日ごろお世話になった人たちを、屋形船でもてなすレデントーレの回で、いかにもラストにふさわしい大団円という体裁をとっていて、でもこの雪だるまの回がラストだったんです。ラストに相応しい印象的な回だったように思います。

~あらすじ
ネオ・ベネチアに白い雪が降り積もったある日、灯里はマンホーム時代の子供のころを思い出し、今の自分が子供の頃なりたかった大人にちゃんとなれているか不安になってしまう。そして尊敬するアリシアにどんな大人になりたかったですか?とたずねてみた。するとアリシアは灯里の質問に答えず、灯里の前で一人で雪だるまの玉を作り始めた。灯里も手伝いながら作っていると、どこからともなく人が集まってきて雪だるま作りを手伝ってくれる。作り終えたあとの帰り道、灯里はアリシアが答えてくれなかったことを思い出し、もう一度、どんな大人になりたかったのか尋ねる。「子供の頃ね、雪が降るといつも雪玉を作って遊んだの。雪玉を転がしてるとね、必ず誰かがどこからともなく現れて一緒になって大きくしてくれるの。そして最後は皆満足して帰っていくのよ。その時ね、ふと思ったの。こんな大人になりたいなってね」~

なかなか意味深なセリフでした。まあ頭が悪いせいか、この回答をもらっても、つまりどういう大人なのか判然としなかったんですけどね(笑)。答えてないじゃんって。今でもどういう意味なんだろうって考えたりするんですが(もしかしたら作者はこれを狙っていたんだろうか?)。まあ、きっとこれもグランマの言った「楽しむことが上手な子」と通じるんだと思います。アリシアは童心を持った大人。童心を持ったまま大人になりたい、それがアリシアの答え。

で、それからもう一つこのセリフは語っているようにも感じました。
「どんな大人になりたいですか?」という問いに対して、アリシアは「**という大人になりたい」という風に答えなかった。つまり概念ではなく、エピソード的というか。言葉ではなく、その当時のエモーション(感情)を灯里に伝えようとしている。普通なら、「正義感を失わない大人」とか、「一番のウンディーネ」とか、そういう答えでよさそうなのに、アリシアはそうじゃない。つまりアリシアは記憶が言葉になる前の領域で、いろいろと考える人なのかなと。で、そういうところがミステリアスというかよく分からない人という印象を受ける所以。

つまり言葉(概念)で解釈すると(つまり答えを求めようとすると)、答えが出たところで<考えること>を止めてしまう。それに<正解の形>も止まってしまう。でも言葉で考えるのではなく、感情で考えてると、いつまでも、どこまでも考えることが出来て多くの答えを見つけることが出来る。

で、灯里の才能についてですけど、成長していない(才能がない)のではなく、成長の途中と考えるアリシアの考え方があったのかもしれない。だから成長するまで待てばいい、そんな風に考えていたんじゃないかって思いました。


>万人受けするとDVDが売れない、というカラクリが高菜らいすにはよくわからないのですけれど

たしかに読み返すと私の文章は風が吹けば桶屋が儲かる的な飛躍した文章に見えますね(笑)。肝心なところが抜けている。まあ、私も詳しく知らないのですが、アニメ業界ってDVD販売・レンタルが主な収入源になっていて、TV視聴ができるようになるとみんなレンタルビデオを借りなくなって、収入が落ちるみたいなことを言われているそうです(もちろん放映料は入りますが)。と言っても聞きかじっただけなので実際のところよく知りません(笑)。ただ他のアニメは分かりませんが、ARIAに限ってはゴールデンタイムに移行して再放送しても視聴率UP、プラスレンタルビデオ売上UP、人気急上昇!ってなるような気がします。っていうか、なったらいいななんて(笑)。


>また、アテナさんを演じられていた川上とも子さん、アテナさんの歌を歌っていらした河井英里さんが、お二人ともすでに他界されているのです(T_T) たいへん残念です。

先日の川上ともこさんの訃報は、ARIAを観ていた私にとってまさにリアルタイムなニュースだったので驚いておりました。しかも、アテナの唄パートの河井英里さんが故人となっていたとは。本当に残念です。うん、もう一度作らなくてもいいのかもしれないですね^^ 個人的には、もっと観たい気持ちが強いのですが、このままにしておいた方が作品的にはいいのかも。


>ただ、高菜らいすはヒトなのでして、架空とはいえ空想とはいえ作品内に「ヒトの本当っぽい部分」が描かれていることを期待している気がします。人の愚かしい部分を入れないのは……嘘なんじゃないか? 物語に付き合った時間がもったいなかったと思うというかなんというか(笑)

悪意については、いろいろと考えなきゃいけないですね。たぶん物語的にではなく、人間として考えなきゃいけないことの一つなんじゃないかなと思います。

ここで例を上げるのは不適当なのかもしれないですが、悪意について考えていると今回の東日本大震災で津波で家族や家や財産、仕事を失ってしまった避難所の人たちのことをふと思い出しました。実際にあの方達はやりきれない状況にいらっしゃるなと思います。ある区画を隔てて、財産や家を失った人たちがいて、一方でそうでない人たちがいる。なぜ私たちは頑張らなくちゃいけないのか?と思ったとしても、責められないと思うんです。未熟かどうかは関係ないような気がします。頑張らなくていい人たちの幸せな状態のことを考えると、むしろ悪意や嫉妬を覚えても仕方がないんじゃないかって。ボランティアの人たちに慰みの言葉を掛けてもらったり、支援物資をもらったりしたとき、自分が卑小な存在に見えることはあるだろうし、支援物資が自分のところにたまたま行き渡らなかったり、隣りで大きな笑い声が聴こえたり、そんな小さなことで気に食わないことがあると思うんです。小さなことが積もり積もって疑念が敵意となって、諍いが起こることは集団生活ではよくあるといわれています。中にはボランティアに無理難題を言って、クレーマーとか、モンスター避難民と言われたりする人が出てくる。やりきれない気持ちになります。私個人の考え方ですけど、そのクレーマー化してしまった人が、絶対に間違っている・愚かであるとは思わないんですよね。悪意そのものを敵対視する気にあまりなれなかったりもします。なぜなら悪意は、そういう理不尽な環境の中から生まれて育っていくものだと思うからです。


さっきのアリシアさんの話と少し繋がりますけど、多くの思考が感情から生まれるけど、その感情はやっぱり環境が作る。物事にはどうにもならない部分がある。何もかも失った人が『復興に向けてみんなで頑張ろう』と思えない。鬼ごっこの鬼の役をずっと続けるようなものです。同情はしてくれるけど鬼の役は誰も変わってくれない。ずっと鬼のような立場でいると、本当に鬼のような気持ちになってしまうのだと思う。そんな気がするんです。

何にでも正解があるわけじゃない。正解がないのだから、悪意っていう言葉も解釈の仕方では別の意味になる可能性だってあるはずです。そしてその逆も、あるわけで。たとえば善意の塊みたいな性格のアリシアさんにも、能天気という謗りを受けていた可能性だってあるわけで(笑)

人の能力だって、各々違う。それだって理不尽とも言える。だから頑張れと言い続けるのはある意味酷なことだったりするわけで。

水が無かった火星から理想郷とも思えるAQUAの水都ネオ・ベネチアにだって、プリマ・ウンディーネになるための競争があって、そこには羨望とともに嫉妬も渦巻いているわけです。きっと理想郷なんてないんだと思います。だから、きっと、それと対峙する手段として灯里(やアリシア)を物語の中心に置いたのだとも考えられます。ネオ・ベネチアが偽物の街みたいな言われ方をしたネオ・ベネチアンガラスの回がありましたけど、理想郷に見えるアクアも諧謔や皮肉に包まれた上で成り立っているんですよね。その回はそういうことを作者はちゃんと自覚して書いていることをちょっと思い知らされた回なのでした。

余談ですが、どうして地球がマンホームと呼ばれているのかもずっと考えたりしていました。見当はずれかもしれませんが申し上げますと、マンホームは実はman-homeというspellで、つまり男性が作った社会を表しているのかなと思いました。気温変化がなくて、灯里がシミュレーション・トレーニングでゴンドラの操舵を逆漕ぎで覚えたエピソードがありましたけど、マンホームは極度にテクノロジーが発達していて、それ以外の自然などが犠牲になっている風で、なんとなく男性中心社会が追求していった先の未来図が具現化されたような社会を表しているようにみえる。AQUAはその対極として(あるいは反省点として)女性的な社会を表しているのかな?なんて。そして今回の震災と原発事故、また多くの戦争地域のことを考ていたら、マンホームって、もしかしたら、自然災害、原発事故、戦争や核兵器の被害で、すでに人が住めない状況を設定しているんじゃじゃないかなって思いました。そう思うとちょっと胸が痛いというかキツイですよね。全然癒し系の物語じゃないことになる。

あの震災で私たちの安全に対する考え方の善悪の位置ががひっくり返りました。今までは効率や経済の優先順位が高かったけれど、今は多くの人が安全重視の考え方になっている。理不尽な状況に出くわすと、人は心を強く揺さぶられます。だから物語を人は求めるし、表現しようとするのだと思います。

もしかすると物語って、それを描けるか描けないかの、ぎりぎりの表現形式なのかもしれません。作者はその理不尽な現場から、描写や感情や思考や結論、行動を一つ一つ登場人物の意識(言葉)に表現していく。それが物語なのかなと。

たとえば理不尽な状況にあったとき、傍にいてくれる人や、助言を与えられる人がきっと心強い存在になるんだと思うんです。親が子供に魚を与えるのではなく、釣りの仕方を教えて魚を自分で獲らせる。それが物語であって、そんな物語が求められているのかなと思いました。

言い換えると、子供の環境を作る親にも、原始的な意味で、物語の語り部としての役割が与えられているのかもしれません。親は子供になるべく理不尽でない環境を与え、また理不尽でないように言葉で説明していく必要がある。だからかな、物語だって悪い影響を与えてしまうことだってあるんじゃないかって思っちゃう。間違えてしまう、つまり間違った方法を導いてしまうことってあると思う。なんて飛躍しすぎですね(笑)

こんな感じです。また長々と失礼しました(笑) ARIAを観ながら、そしてこちらでの文章を読みながら、感じて、思ったことは書いたような気がします(その分、とりとめのない内容も多い気がしますが^^)。高菜さんとのやり取りをしている最中に、ふとソクラテスの弁証法を思い出したりしました(参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/弁証法)。頭の意外なところが刺激されて書くのが楽しかったです。大雑把な定義になりますが、考えることの延長に『哲学』という学問分野があることはご存知だと思います。この『哲学』って、理不尽な現場に対して思考を駆使するところの表現方法なのかもしれない。答えを出すためではなく、(理不尽な現場に対して)疑問を感じ、考え続けることを目的としたものなのかな。

なんて。でも、だとすると、こうやって意見を述べ、交わすことも表現の一つなのかも。でついでに言うと『詩』は、感情を表現する媒体。『音楽』は律動・感情(エモーション)、で『学問』は現場に感情や思考をことごとく省いて『結論』を求めることなのかな。ま、そんな単純なものではないと思いますし、長々と書いてしまった言い訳なんですけどね(笑)

最後になりますが、キリハラさんからも多くのご考察をいただきました。色々と参考にさせていただきました。また機会がありましたら意見を交わせられたらと思っております。

それでは、この辺で失礼します。

by たにぐち (2011-06-16 19:21) 

takana_R

たにぐちサンへ

 >2シーズン目の最後の回の灯里とアリシアさんがつくった雪だるまは覚えていますか?

 憶えていますとも。出来上がった雪だるまが雪玉三段式のもので、「西洋式だな」と思ったものです。でも細かいセリフは忘れてしまっているかも(^^; 高菜らいす個人的な解釈になりますけれど、あらすじ紹介をしてくださった文章を読み、アリシアさんらしい答え方のお話だなあと。

 たにぐちさんがおっしゃるように楽しい「童心」を持っている大人になりたい、ともとれますね。高菜らいすはそれともうひとつ感じたことがあります。灯里ちゃんとアリシアさんの関係を考えると、「手助けしてくれる」という部分に高菜らいすは注目せざるを得ません。

 特に親しいわけでもないが、どこからともなくやってきた大人たちが、子供の「手助け」をしてくれる。これって素敵な理想の社会像だなあと感じます。未熟な者を手助けしてくれるのですよ、大人が。理想と申し上げましたけれど、それでも一部ではそういうことは過去から現在までずっと行われてきたことであると思います。遊びにせよ、仕事にせよ、何にせよ。知っているものが知らないものに伝える、教える。だから我々はいまの、ここに、こうして立っていられるのですよね。(おぎゃあと生まれたその時点で、我々は社会からの恩恵を受けている、受けてしまっている。それを返さずにおられますでしょうか)

 雪玉って意外と重いですよね。氷の塊ですし。アニメでは軽々と転がしていた印象で「ウンディーネの筋力はすごすぎる……」と高菜らいすは苦笑いしつつ観た覚えがあります。

 雪玉は重いのです。

 それを、どこからともなくやってきて手助けしてくれる。子どもの自分では動かすことがかなわなかった重い雪玉を「一緒」になって転がしてくれるのです。大人はとても頼りになる存在に映っただろうし、そんな大人になりたい、「自然と誰かを助けるように行動する」という、そういう大人にアリシアさんはなりたいと漠然と思ったのではないかと高菜らいすは想像します。いまだにそれが実行できているかどうかアリシアさん自身不安でもある。だから、一緒に雪玉を作って、物語として伝えるほかなかった。そんなことを少し思います。

 あと、雪玉は転がせば転がすほど、大きくなるのです。それは暗に「水無灯里という才能」の雪玉を一緒に転がして大きくしていけたらいいねって、アリシアさんと灯里ちゃんは感じた、そんな素敵な雪のネオ・ヴェネツィアの一日だったのでは? それは真っ白なアクアが二人にくれた素敵な贈り物だったのかもね。

 恥ずかしいせりふ禁止っ。

 少し話がそれますけれど、そして直接知っているわけではないのですけれど、ある作家さんが作品を発表するにあたりインタビューを受けることになったそうで、インタビューした人の質問は「この作品のテーマはなんですか?」だった。すると作家さんは答えました。「それが手短にさっとここで答えられるようであれば、自分はこの作品を書きはしなかった」と。答えられないから物語にして書いた。ということでしょうか。なんかカッコイイ話なんですけれども、そういうことってあるのかもしれません。(作家さんとはたしか村上龍さんだったような。記憶違いかもしれないので、ある作家さん、としました。ほんと、誰だったかな(^^;)

 アリシアさんはなぜ雪だるまのエピソードを選んだのだろうと高菜らいすは考えざるを得ません。「手助けをしてあげられるような大人になりたい」と答えるだけではたぶん、言葉が不足だったのではないだろうかと考えます。助けてやった、助けられた、という関係だけでは長続きしない。そんな経験か想いが、アリシアさんの中にあったのかな?
 助けている人自身も楽しんでいる。「与える者と与えられる者」という構図ではなく、「どちらも与えられている者」であり、また「与えている者」である、ビジネス用語風に言えばWIN-WINの関係? どうか灯里ちゃんは「与えられてばかりで悪いな……」などと思わずのびのび育ってください、と伝えたかったのではないかなあ。そんなことを伝えるには雪だるまのお話がちょうどよかったのでは。雪だるまを作るのは老若男女楽しいものだそうですしね。(高菜らいすは雪玉を見ると転がしたくなっちゃいます。これはもうアフォーダンスかしら?(笑))

 というようなことを高菜らいすという個人は感じました。

>「どんな大人になりたいですか?」という問いに対して、アリシアは「**という大人になりたい」という風に答えなかった。

 えーっと……あれ? 「子供の頃ね、雪が降るといつも雪玉を作って遊んだの。雪玉を転がしてるとね、必ず誰かがどこからともなく現れて一緒になって大きくしてくれるの。そして最後は皆満足して帰っていくのよ。その時ね、ふと思ったの。こんな大人になりたいなってね」と、ちゃんと答えているような(^^; 

>普通なら、「正義感を失わない大人」とか、「一番のウンディーネ」とか、そういう答えでよさそうなのに、

 その「普通」というのに高菜らいすの理解は及びませんでした。「簡潔に」という意味なのかな……。「どんな大人になりたかった?」という質問に対して、「簡潔に答えるべきだ」というルールはいったい誰が決めたのでしょう……。


>マンホームは実はman-homeというspellで、つまり男性が作った社会を表しているのかなと思いました。

 マンホームのことを知る手がかりがあまり作中では語られていないので判断が難しいですね。たとえばじゃがいも屋さんの描写がありました。マンホームのじゃがいもはカットされたものが売られていて、アクアのものはまるまる一個がじゃがバターに。マンホームでは「合理主義」が極度にすすんでいるとは想像できるかも。
manなので、至極まっとうに「人類」「人」「人々」かと思っていました。人類の故郷というニュアンスでマンホームと呼んでいるのかと。地球を故郷と呼べる時代に生まれたかったなあ……宇宙に行ってみたい。

 それから、震災の話題をいただきました。

>あの震災で私たちの安全に対する考え方の善悪の位置ががひっくり返りました。

 高菜らいすは正直驚きました。「あの」震災、と、たにぐちサンがおっしゃっていることにです。高菜らいすにとっては目下、震災は続いている状態だったのです。しかしもう三ヶ月以上も経っているのですね。

 思いのたけを、感じたままに、コメントしてくださったのだろうと思います。つまり、親しい人を亡くした人もいればそうではなかった人もいる、家財を失った人もいれば失わなかった人もいる。その方々の間に僅かな確執が生まれているのではないか。しかし原因は地震と津波と原発事故で、責める相手が見当たらない。やり場のない感情が、たとえばボランティアの方に辛く当たったりする行為に逃げ道を作ってしまったのではないか。ということをおっしゃりたいのだろうと捉えました。そしてそれは震災という外部からの要因によって引き起こされた感情で、今回の震災ではその感情を持ってしまった個人を責めることがためらわれる。そういうことかなー、と。

 以前から動画サイトにアップされた津波の動画を何度も繰り返し見ています。

 三陸沖に伝わる言葉に「津波てんでんこ」というものがあるそうですね。怖い怖いと聞いてはいたが、ここまで怖いとは思いもよらなかった。動画を観た高菜らいすがこんだけ驚いているのだから、実際に目の当たりにされた方の気持ちは想像できそうにありません。


 ARIAの話題、悪意の話題、震災の話題、かなり入り乱れているかも。共感できそうな可能性のある事柄もあり、理解の及ばない事柄もある。「感情」「言葉」「概念」「物語」等々については、またいつか機会があればお話できたらいいなと思います。(釣りの方法を教えるというのは、面白い指摘です。以前記号論や分類学の研究をされている方のエッセイを読んだことがあるのですけれど、そこでは最初に物語を語り始めたのは「狩人」なのではないか、と述べられていました。そのことを少し思い出しました)

 「定義」や「前提」、そしてそれらを「理路整然」と、相手に伝わるよう、お互い極めて慎重になれれば何か得るものがあるかもしれませんね(^^ それは言い換えれば、そうしないと到底伝わらない複雑な話題である、ということでもあります。

 ではではー。
by takana_R (2011-06-20 19:43) 

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