高菜亭はここにいるよ [いつも渡り廊下シルフ]
お久しぶりです。
台風が何個かやってきて、蝉の声が秋の虫の声に変わり、アイスコーヒーからホットコーヒーを飲むようになったりと、季節が移り変わっていくのを感じるここ一ヶ月でした。その間に高菜らいすが何をやっていたのかというと……特に何もしておりませんでした。読書と仕事とお部屋の掃除。たまにホームセンターでボルトやナット、電動工具などに憧れのまなざしを向けることはありまして、金尺や直尺を購入してみたり。使う予定がないのが困ったものなのですけれど。現在は「ノギス」を買うことを検討しています。人差し指の直径を、測りたい。
早朝の散歩もその行動様式が変化して参りました。初夏から晩夏にかけては朝の二時間ほどを植物観察に費やしていたのですけれど、一度風邪を患ってからは牛丼チェーン店の「なか卯」、それからマクドナルド、あるいは食事のできるコーナーのあるコンビニエンスストアローソンなどで読書する機会が増えてきました。早朝は寒いこともありましたしね。ホットコーヒーを飲みながら、iPodで音楽を聴きながら、読書をしたり。そのような朝の散歩となっています。
ただまあそれにしても、あまり体調が芳しくない。以前お伝えした「腱鞘炎」はほぼ完治したように思います。腱鞘炎は癖になってしまうことがある、とギターを弾いていたときに教えてもらったことがありました。知人がギター教室に通っておりまして、その先生が腱鞘炎で演奏家生命を絶たれてしまったのだとか。さらにはガンを患っており、練習中に時々「ちょ、ちょっと待っててくれ」と奥に引き返し、お薬をのんでいらしたとか。奥でお薬を飲んでいるときにも生徒さんの調弦の音はしっかりと聞いていらして、「おい、ちょっと、高い、もっと丁寧に調弦しろ」と苦しそうな声が聞こえてきて、知人は自分のギターの調弦どころではなかったと述べていました。
話がそれた。
その腱鞘炎も収まりました。なんとなく違和感はあるのだけれど、生活に支障はまったくない。少しだけ恐れているのは以前のように、猿のようにギターの練習をすることはできないかもしれない、ということです。ま、アホほど練習する機会はもうないと思いますけれど。有志数人でわざわざ合宿場を個人的に借り、朝九時から昼の十二時まで練習、会話をすることもなく合宿場のカレーライスを黙々と食べ、またお昼の十三時から練習、あいだに十五分休憩をはさみ、夜の十八時まで練習、晩ご飯も合宿場で提供されるいまいち美味しくないすき焼き風鍋を、だれとも会話することなく黙々と食べる。その後二十二時ごろまで練習をし、疲れはてて寝る。
あれはいったい、なんだったのか。
そだ。アップした画像は近所の図書館の駐輪所で撮影したものです。おそらくニジュウヤホシテントウだと思われる。アブラムシを食べるタイプのテントウムシではなく、葉を食べるタイプ、つまり人間からすると「害虫」とみなされるタイプのテントウムシです。にょきにょき伸びていた葉っぱがかじられていました。かじられている、つまりなにか虫がいる!と連想が働くようになった自分を少し誇らしく思いながら、ほんとうに虫がいて、驚きもした出来事でした。
かじられた葉といえば、ちょっと前に「オオスカシバ」という生き物がいることを知りました。どこかで出会ったことがあったのだけれど、名前がしっかりと結びついてはいなかった生き物です。ハチドリのようにホバリングの出来る昆虫だそうで、その幼虫はクチナシの葉を食べるとか。高菜らいすの秘密の昆虫観察場にてクチナシの花が大量に咲く場所があり、なるほど、そこに幼虫がいるかもしれないと探してみたのです。葉がかじられた跡はあった。でも、幼虫はいなかった。すでに土中に潜り、蛹になり、飛び立っていったのかもしれません。或いは土中に隠れていたのか。
かじられた葉っぱにも、いろんな情報が詰まっているのだな。
そんなことを知れた今年の夏でした。
さてさて。本の感想などもメモしておこう。
有川浩さんの『植物図鑑』という小説を読んだよ。もうだいぶ前のことになるのだけれど。恋人とわかれたばかりの主人公の住んでいる部屋のごみ収集所に、ある日男性が行き倒れているのを発見する。部屋に上げ、なんやらかんやらあって、一緒に生活することになる。その男性は食べられる植物のことをたくさん知っていて、調理法も知っていて、主人公の女性は世界がぐっと豊かになるんである。高菜らいすも近所の川へ出かけて植物採取をしたくなったくらい。(してないけれど) 男性の個人的事情により、ある日男性は突然姿を消す。主人公の彼女は彼に教わったとおりに、季節の植物を採取し、料理し、男性を待つんである。(んー、待つ、というと語弊があるかもしれない。もう戻ってこないかもしれない、とも思っていただろうし)
それでも教わった「野草の採取、調理」は続けた。そこがとても面白かったところでした。自身の経験に鑑みるに、親しく過ごした人から教わったこと、その人の癖だとか仕草なんかが、別れてだいぶたってからも、自分の中に残っていることをあるときふと感じることがあります。男女の出会いからさらに範囲を広げて、ヒトの出会いってのは、疎遠になってしまっても、なんらかのカタチで、なにか、影響を及ぼし、その個人自体に変化をもたらすことがある。そんなことを感じます。たとえば言葉使いなども変化するよね。使用する単語に変化が訪れるんだ。これまで使っていなかったような単語を使っていることに気が付き、「恋人できたか?」と問えば、意外と当たっていることがあったりしました。
そんなことを感じられた物語でした。
不満を言えば、男性の側のことがあまりよくわからなかったことでしょうか。誤解を恐れずに申し上げますと「デウス・エクス・マキナ」的なものを感じたというか。デウス・エクス・マキナとは、高菜らいすがこの頃知った言葉で、まあ「神の手」、さらに意訳すると「作者の都合」と解釈していただければ良いと思います。そういうのを感じるとちょっと冷めてしまう。読者とはわがままなものですね(^^; おおそして、高菜らいすがこれまで使わなかったような「デウス・エクス・マキナ」なんて言葉を使っているってことは、高菜らいすにも何かヒトとの出会いがあったのかも?と思っていただければと。
なんつって(笑)
お。神の手といえば、経済学者の嚆矢であるアダム・スミスに関する本も引き続き読んだりしています。彼の書いた著作原典を解説している本、そのようなものを何点か。原作を読むのは大変そうなので、入門書に当たっているのであります。アダム・スミスさんは『国富論』が有名なのだそうですけれど、もうひとつ『道徳感情論』という著作も残しており、ヒトの「利己心」と「社会秩序」が両立するものであるかどうか考えてみたそうです。たいへん興味をそそられるテーマのように感じます。200年以上前に、そんなこと考えていたヒトがいたのだ。
入門書で経済学史の概要を知ろう、などと考えていた高菜らいすでしたけれど、一人の経済学者のことを知るだけでも大変なのでして、さくっと概要を一冊の本で会得しようなどというのは虫の良い話でした。時間が意外と掛かりそうです。朝の読書が捗りそうな気配。
そんなこんなで過ごしています。
今年は例年にもまして「災害」に見舞われるように感じます。みなさま、お怪我はなかったでしょうか。こういうときには妙な予言めいたものや思想が流行るとか。末法思想とかね。そんな怪しげなものに惑わされることなきよう、お気をつけ下さい。
自分も気を付けなければ、と。
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