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暑がりブルーノートメモ [いつも渡り廊下シルフ]

 何かをするでもなく。

 暑い日が続いております。ものもらいや熱中症に悩まされ過ごしております。汗が止まらなくて困る。皆様は如何がお過ごしでしょうか。暑さにやられた高菜らいす脳みそ、「小金持ちブルース」なる即興曲をギター奏でながら歌ったりしてトチ狂っています。そこそこ金もある~、人間関係は程よい距離感を保っていてそれなりだ~、仕事は面倒くさかったり疲れたりするけれどときどき楽しい~、お兄ちゃんは私を心配して電話かけてくる~、ときどきお寿司も食べてる~、そんなこんなのほどほどブルースぅ~♪ と歌っております。

 ただブルースというのはそもそもアメリカ南部のアフリカ系アメリカ人たちが歌い始めたものらしく、労働歌なんて呼ばれたりするらしいのだ。お気楽な歌詞がそぐわないような気もする。けれどもまあ誰かに聴かせるわけでもなく、そうさ音楽は「音を楽しむ」と書く、楽しんだ者勝ちである、と納得しています。

 今年も猛暑なのだろうか。
 秋が早く来ますように。


ぼくらは座敷鷹だったこともある [いつも渡り廊下シルフ]

 動画をウェブログに貼るこころみ。
 虫が苦手な方はご注意ください。でもハエトリグモなので可愛いよ?



 ピーコックスパイダーという面白いハエトリグモがいるそうで、検索して探していたらこんな動画を見つけました。他のサイトでもけっこう貼られている動画のよう。冒頭はおじさまがこのクモについての解説を。そしてそのあとはクモの映像となります。「ピーコック(孔雀)」と付いていることからも、その見た目からも「クジャクのように求愛する」のだろうことが予想できました。ふむふむ。英語で「求愛」ってのは、「courtship」と言うのだなあ。勉強になりました。

 メスを見つけると、オスは脚をひょいっひょいっと動かし、そして一対の脚を上にあげてバンザイする。「脚を上げてバンザイする」ってのは妙な言い方かもしれません。その姿は体操選手のように美しいのだ。そうしていよいよクライマックスには背中を立たせて見事クジャクのような姿になるのでした。こんな生き物がいたのだなあ。模様がとても艶やかでこれが自然のものだとはちょっと思えない、そんな気持ちになります。背中の模様はどこかクモ自身の姿にも思えます。まるで狩猟民族の衣装のような。自然は意外とカラフル。

 そうそう、高菜らいすの部屋でも昨日ハエトリグモが壁をはっていました。すごく小さいヤツで、「部屋のどこか、冷蔵庫の裏にでもタマゴがあって、それが孵ったのかしら?」と思ったりしています。体長2mmくらい。ここ数日少しだけ気温の高い日が続いたので、虫もそろそろ動き出す準備をしているのかも。時期的にも「蟄虫、戸を啓く」ということなのかもしれません。

 高菜らいすもそろそろ外へ出ないと……でもまだ寒いんだよ。
 うー、イエス! オープンマイマインド!


未来型万能お茶汲みロボ107号 [いつも渡り廊下シルフ]

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 もう3月だ。2月はウェブログ更新するの忘れてたー。

 お久しぶりです。高菜らいすは枯葉の下で越冬するテントウムシの如く生きております。みなさまもお元気でしょうか。法事のために実家へ帰省したり、熱の上がる風邪を引いたり、左足の小指周辺がしもやけ気味になって涙を流したりして過ごしておりました。靴下二重履きは危険だ。しもやけになる。

 そろそろ春が近づいて参りました。またコブシやモクレンの季節が訪れますね。いまからとても楽しみです。昆虫もまた顔を見せるようになるのだろうな。春は出会いの季節。新しい出会いは緊張するので高菜らいす苦手分野ではありますけれど、最初のそこだけを乗り切れば楽しい気分になれるのです。それはたとえばPCアプリケーションソフトでも同じなのではないでしょうか。文章を書くソフト、ゲームを作るソフト、音楽を作るソフト、絵を描くソフトなどなど。

 最初は使い方がわからない。面倒くさい、自分がやりたい事ができない、もうやーめた。となることもあるとある場所で聞きました。しかしそこは少し辛抱してググればいいのですよググれば。そしたらすぐに答えが見つかる。同じ箇所で詰まってしまった人が、有益な情報を載せてくれていることがけっこうある。一度覚えたソフトの操作は続けている限り忘れることはありません。一歩ずつ一歩ずつ、進めばいいのです。ほんの少しだけ、ほんの少しだけ、辛抱して取り組む、これをたーくさん繰り返せばよいのです。

 思えば遠くへ来たものだ。

 そう思えたときあなたはすでにそのソフトのエキスパートになっているでしょう。すごいね! む、なんだかちょっとだけ自己啓発本みたいになってきた。読み過ぎでしょうか。実家へ帰る車中でも駅の売店で暇つぶしにそれっぽい本を買って読んでみたりしました。「同意する」「ここは考察が足らないな」「これは言い過ぎだし、ごまかしだ」などなど、本に向かってつぶやいている人が電車に乗っていたらそれはたぶん高菜らいすです。そっとしておいてください。

 まあ春を楽しみたい、ということです。

 さておき画像はPILOTから販売されているハイテックCコレトというペンです。替芯が別売りされていて、自分で様々な色を組み合わせて使える万能ペンなのです。色の種類、ほんとにたくさんある。高菜らいすのヨワヨワ目玉では「これとこれ、おんなじ色なんじゃね?」と識別できないくらいの微妙な色合いのものも見かけました。「自分で組み合わせた自分だけのペン」を作れる。ただの文房具なのに、「自分で何かカスタマイズできる」というだけでペンを使うのがとても楽しくなってしまいます。

 ふしぎ。

 いろいろ組み合わせてみた結果、たどり着くのはよくある多色ボールペンと同じ色の組み合わせになるであろうことは予想でき、「じゃあ別に自分で組み合わせる意味ないじゃん」と言われそうですけれども。それでも「自分の意思が介在した文房具」というところで、ゲーム感覚で楽しめてしまうのだよね。面白い商品が世の中にあるものだなあと思います。

 今年度も残すところ一ヶ月となりました。
 悔いなきよう、がんばろうと思う。


来年は龍の肉を食べてみたい [いつも渡り廊下シルフ]

 こんにちは!

 ご無沙汰でございました。11月末から本日までながーい、ながーい、風邪を引いておりまして、お仕事に注力するあまりこちらでご挨拶をするのを忘れておりました。みなさま今年も元気でいられたでしょうか。高菜らいす自身は、今年を総括するには現在時間がなく、というのはあと数分で家を出るからでして、というのは、実家に寄生、もとい、帰省するからなのでありまして、3月の地震からあっというまに時間が過ぎ、「マヤの予言はマジもんかもしれん」とびくびくするくらい大きな出来事のあった今年だった、くらいにしか、まだ思えない状態でございます。あと、年末ずっと風邪を引いていたのが大変つらかった。

 なんとか乗り切り、あとは実家でおせち料理を堪能するだけという状態になりました。母上、父上、兄上に愛想を振りまくという重大な仕事もあります。携帯電話の機種変更もしたい。7月に変更したばかりなのですけれど、この携帯電話がいまいち使いにくいのです。写真をとって、PCにぽい、という作業がものすごくやりづらい。それからボタンが押しにくい。携帯電話ショップで、本物よりも軽いダミーの見本が置いてありますけれど、あれはあかんで。使い勝手がまったく反映されておらぬ。今度機種変更するときには「四の五の言わずに実機をよこせ!」と店員さんに迫ってやろうかと考えています。

 さておき。

 今年も仲良くしていただいた方々、みなさま、ありがとうございました。
 良いお年をお迎えください。来年もよろしく。

 ではでは。


秋来ぬとさやかに見えねども [いつも渡り廊下シルフ]

 ご無沙汰ー。

 皆様いかがお過ごしでしょうか。日中暑くなったり、朝方には冷え込んだり。秋らしいといえば秋らしいのかもしれません。植物や昆虫などはだんだんと冬への支度を始めているみたいです。このあいだ電信柱に巣を作ったアシナガバチの集団に出会ったりもしました。電柱の中は温かいのだろうな。今年は実家の雨戸を収納する場所に、アシナガバチが巣を作ってしまったらしく、てんやわんやの母上と父上だったそうです。台風で、巣はダメになったのか、その後は姿を見なくなったとか。驚かさなければ刺したりはしない、と聞いていてわかってはいるものの、何で驚かせてしまうか予想がつかない、できれば少し離れた場所に巣作りしてほしい、そんなわがままを思ってしまうんでありました。

 さておき朝の散歩で見かけたカメムシなどの画像を。
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 カメムシといえばこれ、と言っても過言ではない緑色のカメムシ。コンビニエンスストアの壁に張り付いていました。緑色のカメムシにも幾つか種類があるようで、「アオクサカメムシ」というのが該当するように思います。でも、カメムシには幼生のとかもいるようで、見分けるのに自信がありません。間違っている可能性があります。フーっと息を吹きかけてもまったく動じない、壁にがっしり張り付いている奴でした。

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 この子は小さめのカメムシさん。写真撮影が下手くそすぎていまいちな画像になってしまいましたけれど、「マルカメムシ」というのに似ていました。スーパーマーケットの駐輪場でガラス窓に張り付いていました。いつも持ち歩いているプラスティックの捕獲ケースに入れて、持って帰ってきちゃいました。

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 3つ目最後の画像は、「クサギカメムシ」に間違い有りません。きっと。たぶん。2cm近くあるカメムシで、その大きさに少しびっくり。ぶーんと羽を広げて飛んできたところを捕獲しました。プラケースを持っていなかったので、急遽A4の用紙で筒を作りまして、そこへ誘い込み、持ち帰って来ました。しかし家でじっくり見てみると、後ろ足の一本が欠けてしまっているご様子。捕獲の際にちぎってしまったのかもしれない、すまないことをした。

 このクサギカメムシ、どうやらめちゃくちゃ臭いらしい。カメムシといえば臭いニオイで身を守る、そのイメージはあったものの、かなり臭いニオイを出すのがこのクサギカメムシさんだったようなのです。家に持ち帰るなんて高菜らいす、恐ろしいことをしてしまったものです。幸い高菜らいすを敵だとは認識していなかったようで、特別臭いに悩まされることはありませんでした。命拾いを致しました。

 カメムシも越冬の準備を始めているようだ。温かい人家に近づいてきているみたい。ニオイのイメージが先行してしまってどうも触れたくない昆虫ではありますけれど、改めてその形をじっくりと眺めてみれば、とてもユニークなカタチをしていることに気が付きました。また足取りがたいへんしっかりしている。ちょこちょこ動かない。一歩一歩慎重に歩く。少しロボットみたいにも見えてきて、カメムシへのイメージが変化した高菜らいす、2011年の秋となりました。

 臭いのは、イヤだけれどね。


高菜亭はここにいるよ [いつも渡り廊下シルフ]

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 お久しぶりです。

 台風が何個かやってきて、蝉の声が秋の虫の声に変わり、アイスコーヒーからホットコーヒーを飲むようになったりと、季節が移り変わっていくのを感じるここ一ヶ月でした。その間に高菜らいすが何をやっていたのかというと……特に何もしておりませんでした。読書と仕事とお部屋の掃除。たまにホームセンターでボルトやナット、電動工具などに憧れのまなざしを向けることはありまして、金尺や直尺を購入してみたり。使う予定がないのが困ったものなのですけれど。現在は「ノギス」を買うことを検討しています。人差し指の直径を、測りたい。

 早朝の散歩もその行動様式が変化して参りました。初夏から晩夏にかけては朝の二時間ほどを植物観察に費やしていたのですけれど、一度風邪を患ってからは牛丼チェーン店の「なか卯」、それからマクドナルド、あるいは食事のできるコーナーのあるコンビニエンスストアローソンなどで読書する機会が増えてきました。早朝は寒いこともありましたしね。ホットコーヒーを飲みながら、iPodで音楽を聴きながら、読書をしたり。そのような朝の散歩となっています。

 ただまあそれにしても、あまり体調が芳しくない。以前お伝えした「腱鞘炎」はほぼ完治したように思います。腱鞘炎は癖になってしまうことがある、とギターを弾いていたときに教えてもらったことがありました。知人がギター教室に通っておりまして、その先生が腱鞘炎で演奏家生命を絶たれてしまったのだとか。さらにはガンを患っており、練習中に時々「ちょ、ちょっと待っててくれ」と奥に引き返し、お薬をのんでいらしたとか。奥でお薬を飲んでいるときにも生徒さんの調弦の音はしっかりと聞いていらして、「おい、ちょっと、高い、もっと丁寧に調弦しろ」と苦しそうな声が聞こえてきて、知人は自分のギターの調弦どころではなかったと述べていました。

 話がそれた。

 その腱鞘炎も収まりました。なんとなく違和感はあるのだけれど、生活に支障はまったくない。少しだけ恐れているのは以前のように、猿のようにギターの練習をすることはできないかもしれない、ということです。ま、アホほど練習する機会はもうないと思いますけれど。有志数人でわざわざ合宿場を個人的に借り、朝九時から昼の十二時まで練習、会話をすることもなく合宿場のカレーライスを黙々と食べ、またお昼の十三時から練習、あいだに十五分休憩をはさみ、夜の十八時まで練習、晩ご飯も合宿場で提供されるいまいち美味しくないすき焼き風鍋を、だれとも会話することなく黙々と食べる。その後二十二時ごろまで練習をし、疲れはてて寝る。

 あれはいったい、なんだったのか。

 そだ。アップした画像は近所の図書館の駐輪所で撮影したものです。おそらくニジュウヤホシテントウだと思われる。アブラムシを食べるタイプのテントウムシではなく、葉を食べるタイプ、つまり人間からすると「害虫」とみなされるタイプのテントウムシです。にょきにょき伸びていた葉っぱがかじられていました。かじられている、つまりなにか虫がいる!と連想が働くようになった自分を少し誇らしく思いながら、ほんとうに虫がいて、驚きもした出来事でした。

 かじられた葉といえば、ちょっと前に「オオスカシバ」という生き物がいることを知りました。どこかで出会ったことがあったのだけれど、名前がしっかりと結びついてはいなかった生き物です。ハチドリのようにホバリングの出来る昆虫だそうで、その幼虫はクチナシの葉を食べるとか。高菜らいすの秘密の昆虫観察場にてクチナシの花が大量に咲く場所があり、なるほど、そこに幼虫がいるかもしれないと探してみたのです。葉がかじられた跡はあった。でも、幼虫はいなかった。すでに土中に潜り、蛹になり、飛び立っていったのかもしれません。或いは土中に隠れていたのか。

 かじられた葉っぱにも、いろんな情報が詰まっているのだな。
 そんなことを知れた今年の夏でした。

 さてさて。本の感想などもメモしておこう。

 有川浩さんの『植物図鑑』という小説を読んだよ。もうだいぶ前のことになるのだけれど。恋人とわかれたばかりの主人公の住んでいる部屋のごみ収集所に、ある日男性が行き倒れているのを発見する。部屋に上げ、なんやらかんやらあって、一緒に生活することになる。その男性は食べられる植物のことをたくさん知っていて、調理法も知っていて、主人公の女性は世界がぐっと豊かになるんである。高菜らいすも近所の川へ出かけて植物採取をしたくなったくらい。(してないけれど) 男性の個人的事情により、ある日男性は突然姿を消す。主人公の彼女は彼に教わったとおりに、季節の植物を採取し、料理し、男性を待つんである。(んー、待つ、というと語弊があるかもしれない。もう戻ってこないかもしれない、とも思っていただろうし)

 それでも教わった「野草の採取、調理」は続けた。そこがとても面白かったところでした。自身の経験に鑑みるに、親しく過ごした人から教わったこと、その人の癖だとか仕草なんかが、別れてだいぶたってからも、自分の中に残っていることをあるときふと感じることがあります。男女の出会いからさらに範囲を広げて、ヒトの出会いってのは、疎遠になってしまっても、なんらかのカタチで、なにか、影響を及ぼし、その個人自体に変化をもたらすことがある。そんなことを感じます。たとえば言葉使いなども変化するよね。使用する単語に変化が訪れるんだ。これまで使っていなかったような単語を使っていることに気が付き、「恋人できたか?」と問えば、意外と当たっていることがあったりしました。

 そんなことを感じられた物語でした。

 不満を言えば、男性の側のことがあまりよくわからなかったことでしょうか。誤解を恐れずに申し上げますと「デウス・エクス・マキナ」的なものを感じたというか。デウス・エクス・マキナとは、高菜らいすがこの頃知った言葉で、まあ「神の手」、さらに意訳すると「作者の都合」と解釈していただければ良いと思います。そういうのを感じるとちょっと冷めてしまう。読者とはわがままなものですね(^^; おおそして、高菜らいすがこれまで使わなかったような「デウス・エクス・マキナ」なんて言葉を使っているってことは、高菜らいすにも何かヒトとの出会いがあったのかも?と思っていただければと。

 なんつって(笑)

 お。神の手といえば、経済学者の嚆矢であるアダム・スミスに関する本も引き続き読んだりしています。彼の書いた著作原典を解説している本、そのようなものを何点か。原作を読むのは大変そうなので、入門書に当たっているのであります。アダム・スミスさんは『国富論』が有名なのだそうですけれど、もうひとつ『道徳感情論』という著作も残しており、ヒトの「利己心」と「社会秩序」が両立するものであるかどうか考えてみたそうです。たいへん興味をそそられるテーマのように感じます。200年以上前に、そんなこと考えていたヒトがいたのだ。

 入門書で経済学史の概要を知ろう、などと考えていた高菜らいすでしたけれど、一人の経済学者のことを知るだけでも大変なのでして、さくっと概要を一冊の本で会得しようなどというのは虫の良い話でした。時間が意外と掛かりそうです。朝の読書が捗りそうな気配。

 そんなこんなで過ごしています。

 今年は例年にもまして「災害」に見舞われるように感じます。みなさま、お怪我はなかったでしょうか。こういうときには妙な予言めいたものや思想が流行るとか。末法思想とかね。そんな怪しげなものに惑わされることなきよう、お気をつけ下さい。

 自分も気を付けなければ、と。


そろそろ携帯電話の神とか、言い出す [いつも渡り廊下シルフ]

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 本日は五山の送り火が行われます。

 午後八時過ぎからほんの一時間程度の賑わいなのですけれど、いったいどこから!と叫びたくなるほど人だかりになります。高菜らいすは緊張しております。電車がめちゃくちゃ混む。どこでもドアでも觔斗雲でも魔法の絨毯でもなんでもいい、誰かくれないものかなあとぼんやり考えるここ数日でありました。

 先日、『図説、地図とあらすじで分かる! 古事記と日本書紀』(坂本勝著)という本を読みました。数年前から高菜らいすは「創世記」というものに非常に関心を持っておりまして、それはなにかというと、「物書きを目指すんであればひとつ、高菜らいすという個体がでっちあげる世界の成り立ちなんかを書いてみたい」という気持ちがありまして、そのせいで現在に伝わる様々な文化の創世記が気になるのであります。

 キリスト教の旧約聖書、それからギリシャ神話、さらにケルトの神々などなど、世の中にはたくさんのでっちあげがあり、面白いなあ、高菜もやってみたいなあとわくわくしてしまうのですけれど、そういえば日本にもあったのでは? と気がついたのです。そうです古事記日本書紀です。図書館にてたまたま借りられる冊数に余裕がありましたので、手にとったこの新書を借りてみました。

 ややー、面白い。

 イザナキ、イザナミという二柱の神については、高菜らいすは女神転生というテレビゲームで初めてのその名前を知ったように記憶しています。「ワガナハ ドリアード コンゴトモ ヨロシク」などなど、懐かしいゲームです。炎の腐海というダンジョンで高菜らいすはギブアップしました(笑) 歩くたび、ダメージ受けるよ。あとエナジードレインというレベルを下げてくる魔法がありまして、非常に恐ろしかった。難易度高すぎる。

 さてさて古事記の解説を読んでみると、この二柱以外にもたくさんの神々が出てきました。二柱の以前にもいくつかの神々がいて、そのあとにアマテラス、スサノヲ、オホクニヌシなど、名前を聞いたことのあるものが。それ以外にも大量の神々が、その神々の身体から生まれてきておりました。「天津日高日子番能邇邇芸命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)」やその孫にあたる「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト)」などという存在も登場し、「なんと……まだまだ知らない響きの名前がいっぱいある。そして、長くて覚えられない!」と高菜らいす個人はたいへん驚嘆、感動したのでした。読み進めるに従って次第に神の時代から人に近い存在が登場する物語になる。ヤマトタケルの遠征などは大作RPGゲームにでもなりそうなストーリーです。荒ぶる地方の神々との戦い、伝説の武具、その気性を恐れられ父親から疎まれてしまう悲しい物語などなど、非常にわくわくいたします。

 個人的には、死んだイザナミが黄泉の世界から夫イザナキを執拗に追いかけてくるのが面白かった。ゾンビになって追いかけてくるのじゃよー。怖いー。(似たような神話はギリシャ神話にもあるそうですね。オルフェウスとエウリディケ、だっけな?) 人のあるところには似たような神話が生まれるのか?と考えるのも面白いし、シルクロードを経てはるばる神話が伝わってきていたと考えるのも面白いなと思います。そういえば日本書紀に出てくる「厩戸皇子」は、イエス・キリストのエピソードと似てね?と思ったりね。

 そうだ。以前ウェブログでもお話しした下鴨神社の八咫烏ですけれど、イワレビコノミコト(神武天皇)を導いたと紹介されていました。

 さておき、古事記が神代のことを中心に記述されているのに比べて、日本書紀には天地開闢から持統天皇の時代のことまでが細かく書いてある。この2つの書物の編纂を命じたのが持統天皇の夫天武天皇だ。皇子時代の名前は大海人皇子。日本書紀には厩戸皇子(聖徳太子)や物部氏と蘇我氏の対立なども載っておりました。昔読んだことのある「日本の歴史」という歴史学習漫画に載っていた聖徳太子のエピソードなどはなるほど、日本書紀の記述も大いに参考にされていたのだなあと確認することができました。蘇我馬子が厩戸皇子に訴える、「物部守屋は仏像を捨て、仏閣を焼き払い、僧や尼をむちでぶったのですぞ!(ばちーん、とムチで打つしぐさで)」「なんと……それは酷い」と二人が会話していた漫画のシーンを、ありありと思いだした高菜らいすでした。馬子の涙がアメリカンクラッカーのように描かれていた(笑) 意外と昔のことでも覚えているものですね。(^^ 

 非常に穿った見方かもしれませんけれど、と言いつつ、ホントはそうは思っていないのですけれど、つまり自信を持ってホンネを述べますと、時の権力者自身の正当性を示すためにある程度脚色して描かれたのではないかと思いながら読み進めました。この著書にも「そういうことが考えられる」と解説に書かれていましたしね。天武天皇もまた政争のど真ん中で動かざるを得なかった人物。兄や甥っ子と戦わなければならなかったしね。そうして自らの政権内外に、ひとまずその正当性を歴史という形で示しておかねばならぬ、そう考えたのかも。

 著書内でも述べられていたのですけれど、ヤマトタケルについての記述が、古事記と日本書紀では若干ニュアンスが変わっているそうです。古事記では、ヤマトタケルは父親に疎まれて悲しい死を遂げたことになっているのだけれど、日本書紀では父親はヤマトタケルの功績を認め、息子の死を深く悲しんだということになっているのだとか。

 高菜らいす、意外と完璧主義者なのでありまして、というか神経質なのでありまして、たとえば臣下に「歴史を編纂せよ!」と命じ、出来上がってきた2つの書物に差異があれば、気になって仕方なく夜も寝られずごはんも喉を通らず、「ねえ、臣下さんたち、お手数ですけれど、記述を統一しません?」と言い出しそう(笑) 天武天皇はそんなこと言わなかったのだろうか。「記述に差が出た? かまへんかまへん。細かいこと気にせんでええで」という意見だったのだろうか。「さすが国をおさめるほどの才覚を持った人、器がでかいわ」などと独りごちたんでありました。

 ところが。

 古事記と日本書紀の編纂を命じた天武天皇の崩御後、数十年後になってようやく編纂が終わったということをさきほど知りました。でへへ。お恥ずかしい(^^; 日本史の授業で習ったはずなのだけれど……蘇我馬子の涙のアメリカンクラッカーは憶えていたのに……このことはさっぱり忘れておりました。天武天皇の崩御は686年。古事記の成立は712年。日本書紀の成立は720年。そっかー。じゃあ心配しなくても良かった。さらに冷静になって考えるに、2つの書物をわざわざ編纂させたということは、古事記には古事記の、日本書紀には日本書紀の、それぞれに違った目的があったのだろうなとも考えられる。記述に差異があるのはひょっとしたら当然なのかもね。

 古事記も日本書紀も、面白い。どっちかというと古事記のほうが面白く感じた高菜らいすでした。神代の記述だけに、神がかったことがいっぱい出てくるしね。日本という文化において、神はいっぱい造られたのだなあ。話はそれますけれど、江戸時代なんてそこらのモノにまで何かが宿っているなんて考えることもした。古事記では自然現象から、神の吐瀉物、糞、尿、死骸の各部位に至るまで、様々なところから神が生まれたと描かれていた。想像力を刺激されることうけ合いです。

 「物書きであればギリシャ神話や聖書は必読だよ」と述べられているのを目にすることがあります。その意見にはたしかに賛同するところがあり、しかし、日本にもオモロイ古典がいっぱいあるではないか。灯台下暗し。古事記も必読書に加えて欲しい、そんな気持ちになりました。

 学生時代、つまり中学高校大学と、時間のあるときにもっとこういう本をガッツリ読んでみたらよかったなあと少しだけ後悔したりも。そのときには知らなかったのだ、この愉しみ。思い立ったが吉日などと申します、思い知ったが吉日、と考えて精進したいと思います。

 昔の人の、世界の切り取り方を学んでいます。
 ではでは。


指先ひとつでダウンサーン [いつも渡り廊下シルフ]

ウキツリボク.jpg

 ごぶさたー。

 腱鞘炎があまり回復しません。右手の人差指と中指がもうずっとビリビリしてる。ビリビリしているだけで、それさえ気にしなければ別に使用しても問題ないのですけれど、もっと動かしたほうがいいのかそれとも休ませたほうがいいのか、難しいところです。さらに高菜らいすのクセとしまして、寝ているときにときどき右手をマクラにして寝てしまうことがありまして、それも痺れの原因になっているのかもしれないという事実が発覚いたしました。

 もうどないせえっちゅうねん。

 さておき画像は「ウキツリボク(浮釣木)」と呼ばれる植物のお花です。別名チロリアンランプと呼ばれることもあるとか。一度視界に入れ、その名前をはっきりと意識できるようになると、あら不思議、世間の民家の軒下にはこのウキツリボクがけっこう好まれて植えられていることに気が付きました。至る所にある。

 高菜もいつか、育ててみたい。

 そういや台風が来ています。現在、高菜らいすの部屋の窓もガタガタと風に揺らされておりまして、網戸が勝手に開閉する始末です。壁に沿って風が吹いてしまっているようで、網戸がね、勝手に空いたりしまったりするんだよ。ほんとに。瓦などが飛んでこないことを祈るばかりです。みなさまは台風時三大死亡フラグである行為、「ちょっと田んぼの様子を見てくる」「ちょっと屋根瓦の補強してくる」「ちょっと海の堤防を見てくる」を行わないようお気をつけください。(田んぼに関しては、その年の収穫に直結する心配事なのかもしれず、心配になる気持ちは多少理解できる。しかし命を落としていたのでは本末転倒なのだ)

 ではではー。


いつか私はそびえ立つ神の塔に [いつも渡り廊下シルフ]

 期間限定のアジサイ画像をー。

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小花の白いアジサイ.jpg
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 いろんなアジサイのお花が咲いています。少し花弁(正確にはガクかな?)の小さなタイプのものも。白いアジサイは圧倒的な存在感でした。光って見えました。ひょっとするとこれからだんだん色づいてくるのかも知れません。良い子のみんなー! 覚えているかなー? お花の色を決める四大色素! じゃあ高菜おねーさんと一緒に言ってみようー。いくぞー! フラボノイドー! カロテノイドー! ベタレインー! クロロフィルー! そしてアントシアニンはフラボノイドの一種だったね!(^^

 よく憶えていました。みんな、えらいぞー!

 はいだしょうこさんを意識してみた高菜らいすでした(笑) まあそれはさておき、アジサイのお花の色というのは「もともと持っている色素」と「土壌のpH」と「アルミニウムイオン」、そして「時間経過」に影響されるそうです。一般的に酸性土壌であれば「青っぽく」なり、アルカリ性土壌であれば「赤っぽい」お花になることが研究からわかっているとか。さらに研究はすすみ、酸性であればアルミニウムイオンが溶けやすくなるためその影響で色が変わるんであって、たとえば酸性土壌でもアルミニウムイオンが少なければ、青くはならない傾向が高いそうです。日本は雨の多い地域で、アジサイは青いものが多いのだって。けれども高菜らいすの街の歩道脇に咲いているアジサイは色とりどりでございます。あまりに美しくて、意識が一周しちゃって、生の植物が「造花」のように見えたりする始末。セイヨウアジサイは日本のアジサイが品種改良されたものだといろいろなところで説明を読みました。そしてまた日本に戻ってきた。おかえり、おかえり、と唱えながら朝の散歩を楽しんでいます。

 以下、少し変わり種のアジサイも。

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 ガクアジサイの周辺のお花に見える部分が、八重咲きっぽくなっているものも見つけました。スミダノハナビ(墨田の花火)という品種のものにけっこう似ているように思うのですけれど、再度申し上げます、間違っている可能性が高いです。縁あってここへたどりついたアジサイ・ラヴァーの方、どうかお気を付け下さいませ。図書館でちゃんと調べるのが良いと思うよ?

カシワバアジサイ.jpg
カシワバアジサイの葉っぱ.jpg

 こちらもちょっと変わり種かも。セイヨウアジサイよりも背が高く、花序(?)がだらーんと下がっておりまして、樹木の様相を呈していた種類のアジサイ。こちらはたぶんカシワバアジサイ(柏葉アジサイ)だと思われます。名前にあるとおり、葉っぱが柏に似ていることから名付けられたとか。どうでしょう、似ていますでしょうか。

 ほぼ毎日散歩して植物探索をしているのですけれど、あまりにもたくさんの未知の種類に出くわしてしまい、焦ってしまう高菜らいすです。園芸種にまで手を広げると世界の裾野は何倍にも広がってしまう気配が。「わたしはいつか死ぬ。死へのカウントダウンは始まっている。知らないまま死ぬのは嫌だ」と半ば強迫観念?のようになってしまいます。しかしお仕事にも行かないといけないのです。ずっと観察しているわけにもいかない。植物を眺めていたらあっという間に時間が過ぎてしまい、「ぐわー! ヤバい! 遅刻する!」と慌てる。それならもっと早くから散歩をすればいいのだ、と思いついたのですけれど、気がつけばいつもより2時間も早く家を出てしまっていたり。そして、それでも時間が足らないのですよ……。

 思い込みが激しいというのは困ったものです(笑)

 人には「忘れていられる」という能力も備わっていると聞きました。死へのカウントダウンの音を忘れていられるはずなのだ。それを期待しつつ、極端な方向へ走り過ぎないよう、心をコントロールしていゆきたいと思います。

 お花の画像、600枚くらい撮影しておりました。
 いやはや、極端だ……。


降りそで降らないカエルげこげこ [いつも渡り廊下シルフ]

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 気がつけば五月。

 ツツジが見頃になっています。ツツジにはサツキツツジという品種がある。五月は皐月(サツキ)とも言う。なるほど、だからサツキなのか。そのように合点がいった数年前でした。気温も25度を越す日があったりしていよいよ夏への入り口をくぐってしまった感じがあります。暑い夏がやってくるのだろうか。原発事故関連で夏の電力オーバーが心配されている昨今、素直に夏の到来を待ちわびる気にもなかなかなれないということもあるのですけれど。何事も無く夏を迎えられ、秋を迎えられたらいいなと思います。

 さておき皆様はゴールデンウィークをいかがお過ごしでしたでしょうか。高菜らいすはマヘモちゃんという友人がおうちに遊びに来てくれたりしました。ぶっ続けでDVDを鑑賞するナイトを過ごしたり。何を観るかでいろいろと案があったのですけれど、結局『Simoun(シムーン)』という少女チック、ロマンチックなアニメを鑑賞しました。全26話。お布団のそばに食べ物飲み物を用意して、寝転がりながらひたすらDVDを観る。そんなイベントなのです。

 シムーンに関しては、ここではない世界、ここではない国を舞台にしたSF風味の少女たちの青春群像劇であると、ネット上で説明を目にしました。「群像劇」というのは、幾人かのキャラクターたちそれぞれの成長、変化を描きつつ、それらを絡めて立体的な人間関係を描いたもののことを指すそうです。シムーンもそれにあてはまる部分があるアニメだったように思います。主要登場キャラクターたちは少しずつ成長していくのですけれど、それと同じ速度で、自国が他国にじわじわと侵攻されてゆく。ついには分割統治されてしまうまでに。死んでしまう仲間も出る。失われていくもの、滅びへの姿も描かれていました。それらは作品の大きなテーマである「永遠の少女」というものを大きく盛り上げることになっていたように感じます。

 BGMにはアルゼンチンタンゴを意識した曲が使われていて、これこそマヘモちゃんが高菜らいすにこのアニメを見て欲しかった理由なのだそうです。高菜らいす、かつてピアソラという音楽家にはまっていたことがあり、そのことを憶えていてくれたみたい。高菜らいす自身そのことは忘れていました。マヘモちゃんは高菜らいすが忘れてしまっている高菜らいすのことを、よく知っている。

 また興味深かった設定として、「シムーン」の世界では「誰もが女性として生まれてくる」というものがありました。17歳を迎えると少女たちは自分が男になるか女になるかを自らの意思で選択することになる。子供時代はみんな女の子なのだ。その設定を意識してか、本作では女性声優のみを起用していたのだとか。物語には性・選択後の若い男性、中年男性やご老人も登場するのですけれど、すべて女性の声優さんが声をあてていらっしゃいました。

 初めの数話では多少声優さんの演技に違和感を覚えつつ、「女の子の集団であれば、もう少しドロドロすんじゃないか。ライトに描きすぎか?」という疑問も覚えつつ、また性を選択した後の大人たちの中に「その選択を悔いている」というような人物がいなかったのが少し残念だったかもと思いつつ。しかしあくまでもこの作品は少女の美しい部分を描こうとされていた作品のように思います。全話観終わったあと、マヘモとさっそくなりきりシムーンごっこをしたりして遊びました。「連休がずっと続けばいいのに。もう仕事行きたくない気分だ」「マヘモちゃん、私たちはもう、少女ではいられないのよ……」とかね(笑) 面白い作品でした。ただ、DVDのパッケージや、その紹介文だけであれば高菜らいすは観なかったであろう作品かもしれません。

 パッケージ絵で、損してる気がする。

 女の子たちがイチャイチャするだけのアニメではありませんでした。まあイチャイチャというか、飛空艇に乗り込む前に女の子同士でキスをすることになっているのがなんとも恥ずかしく、赤面してしまった高菜らいすでありましたけれど。第1話を観終わったあとに「マヘモちゃんは高菜とキスしたいからこのアニメを選んだんかしらん?」と狼狽した高菜らいすでございました。マヘモちゃんは美味しそうにカマンベールチーズを食べていた。

 次の機会には『魔法少女まどか☆マギカ』を観たいと思います。
 (執拗に契約を迫る、可愛らしい生き物が出てくるとか?)

 これとはまた別の日に、京都はZEST御池という地下街にて、平林佐也佳さんという画家さんの作品原画展示会があったので、それに少しだけお邪魔してまいりました。再度、マヘモちゃんを誘って行こうと計画もしていたのですけれど、時間があわず、マヘモちゃんとは行けなかったのですけれどね。生の絵にドキドキしつつ、ZEST御池地下街を楽しんでまいりました。平林さんのウェブサイトはこちら

 のんびり、だらーんと連休を過ごしましたとさ。


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