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今日は大文字の送り火があるよ [フェニックス中華鍋じゃーん]

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 でかいよー!

 クモがお嫌いな方、苦手な方、すみませんです。お部屋に出たクモがだんだん巨大になってきました。お盆に帰省する際に逃すことにしました。アパートの階段の裏側へリリース。人間にとって不快な虫たちをもりもり捕食して益虫としての地位を高めていって欲しい。そんな願いを込めて。アシダカさんは器用に脚を動かして逃げてゆきました。いままでありがとう。

 民家近くに生息する「アシダカグモ」なのかそれとも林などに住む「コアシダカグモ」なのかは、結局よくわかりませんでした。どっちだったんだろう。ちなみにアシダカグモの赤ちゃんもこの間見かけました。とても小さかった。ネットで調べてアシダカグモの赤ちゃんではないかと判明したのです。生き物に囲まれて、高菜らいすは今日も元気に過ごしております。

 お盆休みも今日まで。また明日からお仕事の日々が始まります。9月の連休までとりあえずがんばろうかと思う。乗り切ることが出来るかこの暑さ。また台風や大雨になるかもしれない。気をつけないと。ご近所である宇治市では大雨で大変なことになったとニュースで知りました。お仕事の関係もあって、そのせいで多少仕事が増えたりもしています。ありがたいけれどありがたくない。複雑な気持ちです。

 貯金がたまってきたなー。
 通帳を眺める、8月中旬であった。


この頃、頭が上手く働かない [フェニックス中華鍋じゃーん]

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 鳥に挟撃されるの巻。

 うそ。挟撃されはしませんでした。高菜らいすが餌を持っている素振りをしてみたら、まんまと近寄ってきたカモとハト。だまされてやーんの。ゲラゲラ笑いながらその場を後にしました。うそ。笑いをこらえつつちょっとだけ幸せ気分になったよ。ちなみに鴨川にはヌートリアってケモノも住んでいるらしく、餌をあげようとすると寄ってくるらしい。餌はあげないけれど一度間近で観察してみたい。

 毛皮剥いだろかー。ガハハ。


こないだ、蹴鞠に興ずる夢を見た [フェニックス中華鍋じゃーん]

やっぱり速度は三倍だ.jpg

 赤いきつねの即席カップ麺。

 以前はワタクシ「日進のどん兵衛」派だったのです。カップうどんといえば、どん兵衛。そんな風に考えていました。ところがこのどん兵衛、麺に改良が施された。新しくなった麺も美味しいのは美味しいのですけれど、あのいかにもカップ麺然とした縮れ麺の食感が忘れられず、最近ではマルちゃんの赤いきつねを食するようになったんであります。今まであまり食べていなかった赤いきつねちゃん、これも意外と美味しかった。

 3月に入ってから俄然気候が穏やかになってきました。部屋の暖房も休み休み動作しているみたいで、以前のようにずっと送風していても追いつかないくらいの寒さはしばらくお休みしてくれているようです。これはありがたい。このままそうっと春へと向かっていって欲しいと願いつつ、そんなことはあり得ないという現実も知っております、また寒い日もやってくるのでしょう。

 さて。去年の3月11日、東日本にて大きな地震がありましたね。もうすぐあれから1年になる。時間が経つのがはやすぎる。高菜らいすの父母はあれ以来、近所の高台にある公園へ散歩することが日課となりました。いつか津波が来るかもしれない、その時のための練習だ。あと、健康のために散歩。そんな目的があるのだそうです。実家は意外に海が近くにあり、一体全体我が家は海抜何メートルの場所に立っているのだろう?と調べてみたところ、非常に大きな地震+高潮という条件が整ってしまえば、ひょっとしたら津波が到達してしまうかもしれないというような場所に家が立っていることが判明しました。

 さっそく避難訓練です。

 兄上とともに両親に散歩の日課を命令いたしました。命令したというか、まあ本人たちも進んで実行しているのですけれどね。日本列島は地震とともに育ってきた。ここに住んでいる限りは地震からは逃れられない。歴史もそのように伝えてくれています。厳しい自然環境との戦いの歴史の上に、今の日本があると言っても過言ではない。きりっ。地震対策抜かりなく。気を引き締めていきたいと思います。

 あ、今日はひな祭りだ。節句なのだねえ。
 ちょっとひな祭り関連のことを検索してみようっと。


伝説の匠の使っていた伝説の工具 [フェニックス中華鍋じゃーん]

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 ノギスを買った。

 ノギスとは画像にあるようなカタチをした測定工具のひとつです。目盛りが付いていて、副尺(バーニヤ)を使えば、円柱の直径やパイプ管の内径などが0.05mm単位で測れてしまう文明の利器であります。0.01mm単位で測定できるものもあるとか。さらに近年では目盛り部分がデジタル表示になっているものなどもあるそうです。高菜らいすはすぐにノギスを使うような状況になく、税込でも1,000円弱で買える100mmタイプの一番小さいノギスをゲットしました。

 かれこれ2年半以上も前からの「宿題」でありました。

 なんでノギスを買ったのかといいますと、以前NHKの派遣切りドキュメンタリを見たことがその理由になると思われます。その番組ではリーマンショックだったかサブプライム問題だったかで需要が落ち込み、派遣社員の方々の仕事がなくなっていく様子が撮影されていました。例に上がっていた北海道出身の30歳の男性もその一人で、これまで派遣会社で荷物の運搬という単純作業くらいしかしたことがなく、手に職がついていない、そのせいで再就職がなかなかできない、という内容の番組でした。

 男性はある会社に面接を受けにいく。面接後のインタビューにて「不合格」であったことをすぐに伝えていた。「ノギスは使えますか?」と面接官に尋ねられたとか。そして、ノギスなんて使ったことのない彼であり、不採用となった。男性曰く「端的に言えば、経験不足ということ」らしい。基本的な測定工具であるノギスが使えない人では困る、ということらしいのだ。「社会の求めるものと自分がやってきたことは、やっぱりちょっと違うな」と男性が述べるところでインタビューは締められていた。

 さて。

 この番組をたまたま見ていた知人がいらっしゃいまして、その方とお話をする機会がありました。その知人は例のノギスのシーンに刺激を受けられたのでしょうか、「思わずノギス買っちゃった☆」とおっしゃっていた。高菜らいすはたいへん驚きました。「どうすればこの人は仕事を見つけられるんだろうなあ」とぼんやりとしか考えていなかった高菜らいす。しかし知人は「自身が同じ状況になった場合のことも想定してみたら……ノギス買って使ってみようっと!」となったんである。もちろん工具一般が好きである、という個人的嗜好もあったのかもしれない。高菜らいすは工具にそこはかとなく憧れるところがありまして、使わないのにボルトやナットをついつい買ってしまう、電動ドライバーが欲しくなる、ということがあります。だから気持ちもなんとなくわかる。

 しかし、番組放送直後にノギスを買いに走ってしまうその「行動力」にたいへん驚きまして、そして生来負けず嫌いであるところの高菜らいすも「買わなければ」と思って2年半経っていたのでありまして、負けず嫌いである一方でまた怠け癖、面倒くさがり屋、腰が重い、という性質も持っている高菜らいすだったんである。ようやく、ようやく、ノギスを購入したんであります。

 足の親指や鼻の穴を測ってみたりしました(笑)
 工作を頻繁にするわけではないので、やはり使い道がない(^^;

 ちなみに「ノギス」についての説明を簡単に申し上げておきます。ウィキペディアによると「ノギス」というのは本来「ノニウス」と呼ばれるもので、それが日本にて訛った名称なのだそうです。ノニウスは綴りを「nonius」と書きます。「ポルトガルの数学者ペドロ・ヌネシュ、ラテン語表記ペトルス・ノニウス(Petrus Nonius) がノギスに目盛りを付けたといわれている」のだそうです。ノギスの「ギ」は一体どこからやってきたのか? 謎です(笑)

 さらに、ノギスに副尺を加えて補助的機能を追加したのがフランス人のピエール・バーニヤ(Pierre Vernier) さんで、彼の名前から副尺部分は「バーニヤ」と呼ばれるようになりました。さらにさらに、その「補助機能」に注目されたのか、ロケットエンジンなどの補助機能を果たすバーニヤも、ここからきている名称なのだそうです。

 自身の名前が死後もなお後世に伝わる、それはたいへんな名誉なのでありまして、高菜らいす羨ましく思ったりしました。(汚名や悪名は残したくないですけれども(^^;) 死んだ後も忘れられたくない。それはなにも高菜らいすだけが思うことではないはず、わりと多くの人が思うんではないか。そんな欲望は、人にはけっこう備わっているんではないか。そんなことをぼんやりと考えました。

 で、仮にバーニヤを考えたのが高菜らいすだったら、この副尺部分は「タカナ」と呼ばれることになるよね。地域や地方によって、ノニウスがノギスに変化したように、「タカナ」が「タカーニャ」とか「タケイナー」とか呼ばれるようになるんではなかろうか。某日本の宇宙開発機構の設計室にて、「いや、ここはタケイナーを付けないと姿勢制御に不安が残ります」「しかし、タケイナーを付けるとなると予算が足りなくなる」という会話が繰り広げられることになったのではないか。なかなか煮詰まらない議論に、設計室の室長が立ち上がりぼそっと言う、「タケイナーは、たけえなあ(高いなあ)」

 ダジャレ文化にまで影響を及ぼすことができたかもしれない。

 話がそれた。ノギスの説明でした。下の写真をご覧あれ。

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 購入したノギスのパッケージの裏側にあった説明書きです。要約すると、

 本尺目盛と副尺(バーニヤ)目盛をプラスして測定値を読みます。
 ①バーニヤの0点と本尺の目盛の対応箇所を荒読みします。
 ②バーニヤ目盛を本尺の目盛と合った所で読み取ります。
 ③①+②=測定値、となります。

 以上。たったこれだけでノギスは使えるようになるのです。「外側測定」「内側測定」「深さ測定」「段差測定」などができるのですけれど、それらは図りたい対象物にノギスのどの部分を当てるかだけが違うのであって、基本的にはこの目盛り部分を読むことが出来るか、それだけの工具なのです。

 誤解を恐れずに申し上げますと、「使える使えない」という言葉を用いるのは適当ではなく「知っているか知らないか」というレベルの話、だたそれだけのような気がしてきます。高菜らいすにはそのように思えてなりません。そしてそれだけのことが採用不採用に左右するのであれば……知っておくに越したことはないのではないか。知っているか知らないか=知識、と置き換えますと、知識はどれだけ持っていても重たくないように思います。話を飛躍させると、さらに「誰かに教える」という段になっても、知識ってのはどれだけ伝えても減ることがない、無限の資源のように思えてなりません。

 ドキュメンタリ番組に出ていた男性はその後仕事が見つかったのだろうか。見つかっていればいいけれど。或いはノギスを使えるようになった彼になっていれば、なんだか望ましいのにな、と思ったりします。


【追記】 記事内で触れたNHKの番組を見ていた方の、ネット上での感想なども探してみました。ありました。面接へ行く前の履歴書の志望動機欄が白紙であったこと、面接に普段着で向っていること(スーツで行かなくていいの?)など、いろいろと突っ込まれていました。さらに「企業側は、体よく不採用にするために、ノギスのことを持ちだしただけで、ノギスだけが原因ではないと思う」という意見も。「なるほど、採用担当さんは何枚もウワテなのだなあ」と高菜らいすコクリコクリ肯いたんであります。

「ところでノギスは使えますか?」「はい!」と答えられるパターン、「使ったことはありませんが、すぐに覚えます!」と答えるパターンなどを何種類かを想像してみたり。元気にハキハキと、それだけでうまくいく可能性は高まるんではないかと考える、学生気分の抜けない高菜らいすであります。どうかにゃ?

 ノギスの使い方なんて「知っているか知らないかだけである」などと本文中で述べましたけれど、ひょっとすると「定規を使って何かを測る」ことや「単位を考えて、本尺と副尺の目盛りを足し算する」という行為に各個人でハードルの高さに違いがあるのか?とまで考えてみました。これらはおそらく小学校で習う事柄のように思います。嗚呼、義務教育ってありがたい……。


バブル期であれば、浜辺ではなく竹やぶか? [フェニックス中華鍋じゃーん]

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 ペチュニアだと思うよー。パラソルパラソル。

 8月になりました。去年は9月中もずっと暑い日が続き、「8月は60日あるのではないか」と疑ったりしていました。今年はどうかそんなことにはなりませんようにと願う高菜らいすです。夜中に雨が降ったり、夕方に雨が降ったりしてくれて多少は涼しい気持ちになったりもしていますけれど、基本的には「夏」ですね、暑いわやっぱ。

 ぐったりの毎日です。

 お昼寝をよくしているのですけれど、そのおともにiPodで音楽を聴いていたりします。iPodはほんと、重宝しています。いろんな音楽を楽しんでいるよ。そんでこの頃聴いているのは落語なのです。あれ、音楽ではないかも?(^^; まあそれはさておき、以前「お初徳兵衛」や「後生鰻」が面白かったとここでも述べたように思います。その後さらに多くの演目を漁っています。怪談話とかね。古今亭志ん生さんだけではなく他の方のも聞いてみたり。そうしてますます「志ん生さんは酔っ払い方が巧い気がするなあ」と再評価しちゃったり。

 ほんとに酔ってんじゃねえか?

 と疑いつつ。実際に舞台上でもお酒で酔っていた、という逸話もあるそうです。あるときには舞台に上がってそのまま寝てしまったこともあったとか。お客からは「今日は寝かせてやれー」と声が飛んだとか(笑) ほんまかいな。さておきこの頃お気に入りで何度も聴いている演目が「芝浜」という演目なのだ。

 簡単に「芝浜」の説明を申し上げますと、魚の振り売りをしている男とその妻の人情噺なのだ。男は名を熊という。熊さんはお酒が大好き。仕事の途中でお酒を飲んじゃったりして失敗したこともあり、何度か断酒宣言をするもことごとくうまくいかなかった。ある朝、少し早起きしてしまった熊さんは浜辺で50両もの大金の入った箱が打ち上げられているのを発見する。やった!これで贅沢して遊んで暮らせる!と喜び勇んで妻のもとへ持って返ってくるのだけれど、拾得物であり、バレたらしょっぴかれて暗いところへ入れられる、と妻は心配する。

 そこで妻は一計を。熊さんを「まあまあとりあえず」と言って寝かせて、その間に大家さんに相談、番所へ拾ったものを届けたのであった。さて、熊さんは起きて喜び気分のまま友人知人を連れて宴会騒ぎへ。なんせ50両もあるんだ、遊ぶぞーってなもんです。そうしてぐでんぐでんに酔っ払い、お店先で寝てしまう。そこへ妻が迎えに来る。

熊「おお、すまねえが、お代をはらっといてくんねえか」
妻「? あんた、なにいってんの?」
熊「50両があるじゃねえか」
妻「は? 夢でもみたんじゃね?」
熊「夢! あれは夢か! まじか! ガクブル……」

 50両を拾ったことは夢だったことになる。あまりの自分の酷さにがっかりで、熊さんはついにお酒を辞めることに成功した。そのあと無我夢中で働き、年の瀬に借金に追われる生活からも解放されるまでになったんであった。「やっぱ人間、働かねえとな!」なんて言っちゃったりしてるし。もともと、お魚の良し悪しがわかる良い眼を持っている人だったのだ。お酒に目がないところだけが欠点だった。部屋の畳を新品に出来たりするくらい余裕が持てるようになったんである。

 そうしてある年の瀬に、妻がついに白状する。

 「あの50両は夢ではなかった。でも、遊んで暮らそう!と言っていたあなたが心配だった。豪遊していたらすぐに羽振りがいいのがバレて、拾ったものを届けなかったことで罰せられていただろう、それも心配だった。落とし主が現れず50両は熊さん、ようやくあなたのものになった。騙してしまってすまなかったね」

 そう言われて熊さんは、妻が本気で自分のことを心配してくれていたことがわかり、「そうしてくれてありがとう」なんて述べるんであった。それをきいた妻は、こう切り出した。

「さあ、もう大丈夫だろう。熊さん、今夜はお酒を飲んでいいよ」
 目の前には久しぶりのお酒。
「うわー、久しぶりだなあ、この香り、いいねえ」
 と熊さんは喜ぶのだけれど、ふと、飲もうとしていたその手を止める。
「あんた、どうしたんだい? もう飲んでいいんだよ?」
 熊さんは言う。
「やっぱり、酒はよしとこう」
「どうしてさ?」
「……また、夢になったら困る」

 そこでお話は終わるのでした。

 なんか面白い、エエ話やなあと高菜らいすは思いつつ、ぼけーっと天井を眺めているんであります。二人が末永く仲良く暮らせればいいなあなどと思ったり。とりあえず素敵な年越しを迎えられたのではないか、そんな気がしたんであります。

 高菜はどうも「人情話」が好きみたいだ。他にもないものかと探しています。落語というジャンルだけではなく、たとえば「講談」という芸能もある。この講談というのは、主に軍記物や政談を名調子で語ってくれる芸能のことなのだ。youtubeなどに動画が上がっていたりします。(がんだむ講談、なんてものもあったよー) ただ、扱っている題材が歴史上の人物であったり、大事件であったりで、落語の人情噺と比べると、身近ではないというか。人情噺の高菜らいすにとっての肝は、「誰もが持っている駄目なとこ、よいとこ」なのであって。にはは。

 いまのところ、古今亭志ん生さんの人情話に勝るものは見つけられずにいます。また講談はどうも語りの抑揚がお経っぽく聞こえちゃって(^^; それでもたぶん、あるとき、「あ! 講談面白い!」と高菜らいすが感じる未来がやってくることでしょう。何度かすれ違い、あるときはっと見つめあう、そんな瞬間が訪れるに違いない。むふふ。

 落語が「伝統芸能」として褒め称えられ、ちょっと近寄りがたい(喩えるなら「一見さんお断り」的な)イメージもあるかもしれないのですけれど、そして寡聞にして高菜らいすにはその「伝統のすごさ」部分についてはいまいちよくわかっておりませんけれども、それでも「人のダメな部分」と「良い部分」、それはつまりちょいと「人の本当の部分」が、シリアスになりすぎずに笑いを交えて語られる、そういうところが落語が長く続いている理由なのかなあと思ったりします。

 仮の未来を想定する高菜らいす、自分がもしママになったとき、子供が夜寝る前に「ママー、絵本を読んでー」とせがまれることもあるかもしれない。そのときには「まあ絵本はさておき、娘よ、これを聴け」と、落語を聞かすなんてことも……ないかな?(笑) 飲む打つ買うとかは子供にはワカンナイしな。落語はやはり、大人の愉しみです。にはは。

 他の人情話も探してみたいと思います。
 ではでは。


主食はカイワレダイコンです [フェニックス中華鍋じゃーん]

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 馴染みの子。メキシコマンネングサです。

 想像していたよりも小さなお花だったことに驚いたのがもう懐かしい。いまでは高菜らいすにとって当たり前の存在となってしまいました。花壇の下の方にこっそりと、しかし確実に勢力を伸ばしつつ、存在しているやつらなのだ。

 さておき読書メモなどを。

 ルイス・サッカーさんというアメリカの作家の『穴』という作品を読みました。児童文学のコーナーに置いてありました。冤罪によって少年院に入れられることになった主人公。干上がった湖のそばで、毎日ただ穴を掘らされる刑に処せられる。時代を超えて出てくるたくさんの人物たちの想いや行いがリンクする、たいへん上手な作品でした。高菜らいすは「ただ穴を掘らされるその行為」自体に何かを感じさせられる物語なのだろうか、と予想していたのですけれど、特別そういう事はなく、物語内で理由が用意されていました。先祖にかけられ、子孫数世代に渡って続いていた呪いがついに。学術的に考察される神話や昔話の構造を、巧い塩梅で現代に置き換えることに成功した作品なのかもしれません。

 それから藤田雅矢さんという作家さんの『星の綿毛』を読了いたしました。高菜らいすはずっとこの作品のタイトルを「星の線毛(せんもう)」だと考えていたのです。でも違った。正しくは『星の綿毛(わたげ)』でした。人に紹介するときにも、「星のせんもうだよ!」と言っていたのでして、たいへんお恥ずかしい思いに駆られました。星のわたげです。ある砂漠の星にて、ひたすら大地を耕し種をまく神のような存在の機械が動いている。その廻りにムラがあり、その機械に寄生するようにして人々が生きているのだ。著者は農業関係の研究所に勤務されている方らしく、その経験や知識の生かされた物語となっていました。著者がリトープス(多肉植物の一種)に対して、こんな空想を働かせ、それが物語になった。そんなことを想像できて楽しかったです。

 むふふ。


おこりんぼヨーダ [フェニックス中華鍋じゃーん]

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 ぷっはー。

 コンビニにてパッケージのペンギンに惹かれて購入した「さくらんぼコーラ」なる飲み物。サッポロ飲料さんから発売されているなんともカラフルな飲み物です。高菜らいす、両親からのしつけの影響でしょうか、「炭酸飲料は悪」であり、「どぎつい色のものは体に悪いものが入っている」などという思い込みがあったりします。けれども認可されている飲料であり、毎日2Lを1年続けるというような飲み方をしない限り大丈夫であろうと思えるように成長しました。

 あくまでも嗜好品のひとつなのだ。

 毎日2Lを一年続ける、と書きましたけれど、じゃあ健康に良いとされたりすることのある納豆を毎日500グラム食べ続ければ、それはやっぱ「偏食」ということになり、あんまりよろしく無いのではないか、そんなことも思います。赤色2号? 人類の科学の発展を感じられる、素敵な色ではないか。

 さくらんぼコーラ、好んで再度購入しようとまで思いはしないものの、炭酸飲料でのどシュワシュワの夜を楽しみました。ネーミングが可愛いな。「さびしんぼソーダ」「かくれんぼオーラ」「おにやんまコーダ」などなど「○○○んぼ○ー○」と抜き出して言葉遊びをひとり繰り広げたんであった。

 もう今日は金曜日。一週間早いなー。


にんにくのニオイがずっと [フェニックス中華鍋じゃーん]

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 君の胃袋を刺激したあーい。わーん、わわーほぅ。

 という歌謡曲を頭の中で即興しながら今日は過ごしました。暖かくなってきたのでパソコンのキーボードを打つのも億劫ではなくなってきた。「気温の変化とウェブログの更新頻度」についての論文がそのうち公開されるのではなかろうか。そう思う近頃です。そんなのは言うまでもない周知の事実なのかもしれない。

 なるほど。


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